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「道光十八年冠船付評価方日記」に見る評価貿易

  【要旨】琉球王國における冊封は、1404(永楽2)年の中山王察度の子武寧が最初で1866(同治5)年の琉球最後の國王尚泰まで460餘年続いている。琉球國王の冊封については、明代16回、清代8回、合計24回の挙行が史料にて確認できる。冊封の際に派遣された頭號船·二號船は、琉球では「冠船」と稱され、その冠船には冊封正使·冊封副使及び従人以外に船主や水主そして兵士200人等が乗り込み、その人數は通常400~500人、多いと600人以上にも達していた。冊封使派遣の際には船底に積むバラストとして貨物の携帯が許され、使節一行の多くが貨物を琉球に持ち込み、それを高値で売りつけようとしていた。琉球側は貿易を管理する評価方(司)を臨時に設置して、各商品についての値決めを行っていたが、その値決めのことを王府は「評価」と稱し、そうした貿易のことを「評価貿易」或いは「冠船貿易」と稱している。その値決めの際には、中國·琉球雙方の売値と買値が食い違い、また貨物の中には高価なものや琉球側が必要としないものがあったため、しばしばトラブルのもととなっていた。本稿では、1838(道光18)に來航した冊封使(正使林鴻年·副使高人鑑)一行の評価貿易について、台灣大學所蔵の「冠船に付評価方日記」を用いて、その実態の分析を試みる。

  【キーワード】冊封  冠船貿易  冠船に付評価方

  はじめに

  琉球と中國との正式な外交関係は洪武5(1372)年に洪武帝の招諭を受け、中山王察度が中國に進貢使節を派遣したことに始まる。洪武28(1395)年に中山王察度が逝去し、世子の武寧が1403(永楽元)年に使臣を中國に派遣し冊封を請うと、翌年成祖は行人の時中を琉球に派遣し勅書をもって武寧を琉球國王に冊封している。こうした冊封は、1866(同治5)年の琉球最後の國王尚泰まで460餘年続き、明代に16回、清代に8回、合計24回挙行されいている。冊封の際に派遣された頭號船·二號船は、琉球では「冠船」と稱され、その冠船には冊封正使·冊封副使及び従人以外に船戸(船主)や水主そして兵士200人等が乗り込み、その人數は通常400~500人、多いと600人以上にも達していた。冠船には船底に積むバラストとして貨物の携帯が許されていたことから、使節一行の多くが貨物を琉球に持ち込み、それを高値で売りつけようとしていたが、売値と買値の隔たりが大きく、中には高価なものや琉球側が望まないものも含まれていたことから、価格交渉は常に紛糾していた。

  こうした冊封使一行を迎える王府側は貿易を管理する評価方(司)を臨時に設置して、各商品についての値決めを行っていたが、その値決めのことを王府は「評価」と稱し、そうした貿易のことを「評価貿易」或いは「冠船貿易」と稱している。本稿では、道光18(1838)に來航した冊封使(正使林鴻年·副使高人鑑)一行の評価貿易について、台灣大學所蔵の「冠船付評価方日記」の告示·稟文·批示·札·単·甘結·領狀等の収発文書の分析を中心に、その実態を検討してみる。

  一、評価方の受け入れ準備と対策

  道光18(1838)年閏4月15日に評価方の役人全員が那覇の親見世に詰めている。それは諸船頭や航海に熟練した船工の者たちによる予想される冠船の來航期日の協議、そして冊封使を迎える船の船頭が芒種の3日後には福州を出港すると述べていたことに基づくものであった。首裏王府から関連部署への準備の指示や不意の入港でも不手際が起きぬよう厳しい布達が下されている。評価方の詰め所は那覇の「親見世」に置かれていたが、久米村にも中國語での交渉が必要であったことから、久米村評価方が設置され、清人らとの交渉に関する答書(想定問答)の漢文·官話訳の作成がおこなわれていた。閏4月21日には、在番奉行所から小額のものであっても抜け買い(密貿易)をしてはならず、また清人の宿に出入りする下々の者が押しつけられ受けとったものも全て在番奉行所に差し出し、その代銀を受け取るよう事前に通達が出され、さらに地元で消費する地禿し商品を國元(鹿児島)行きの登り船から密かに持ち渡り、領内はもちろん萬一他國(他藩)にまで密輸されることになると、抜け物の御大法(抜け荷禁止)を破ることになるので、そうしたことが絶対に起こらないよう布達されたことから、王府は首裏·泊·那覇·久米村および諸間切·諸島へ厳しく申し渡すよう命じている。5月4日に接貢船が帰國し、清國に派遣されていた評価係りの高良築登之親雲上と田幸築登之親雲上からの文書がもたらされている。その中で二人は、評価物で多量の高額品を持ち込まないよう御迎大夫から撫院と布政司へお願いし、その取り締まりの「告示」が諸衙門から出ていることを告げ、自らも親しい付き合いのある球商人の李禮々·鄭鈴、楊蔭長を通事役として頭號船·二號船の船戸と直談し、持ってきてもよいリストと持って來てはならないリストを作成し、琉球側が交易の対象とする品立てに準じて荷物を持ち渡った場合は利益があるが、萬一高額な品物を持ち渡った場合は売りさばくことができず、持ち帰ってもらうしかないことを伝えたと記している。持ってきてもよい品物に「甘草·大黄·土茯苓·蒼术·桂皮·甘鬆·清明茶·梹榔·大茴香·大楓子·蘇木·麻黄·棉花·棉紗·白术·菜油」16件と、その他に「海南葛·白糖·青氷糖·下南齊·大小傘·中碗·苧·丁香·砂仁·胭脂·藿香」11件を挙げ、持って來てはならない高価な品物として「上洋參·艾片·水角·蟲糸·犀角·上沈香·中玳瑁·中玳瑁脚·中爪」の9件を挙げている。報告書には、その他に頭號船と二號船が持ち渡ることが予測される獨自に調査した物品リストが綴られ、また渡清中の琉球人の中にも、清人の名義を借りて自物品を評価方に売却しようとする者がいるかも知れないとし、その厳重な取り締まりを指示し、渡清中の琉球人の证文(誓約書)を受領することなどが記されていた。

  二、福州における告示

  報告書の中で高良築登之親雲上と田幸築登之親雲上は、書寫した道光17年12月16日付けの布政使の「告示」、道光18年2月18日付けの布政使の「告示」、道光18年1月26日付けの海防庁の「告示」、道光18年3月27日付けの福建巡撫の「告示」、道光18年4月25日付けの海防官の「告示」の内容を王府に伝えている。「告示」とは上級機関或いは上級官吏から出される布告文·通告文のことである。「告示」では、頭號船·二號船の貨物は各船1,000擔を圧載用(底荷)として許可し、総額にして20,000両を超えてはならず、また持ち込んだ貨物は加二(20%)の科息を上限とし、規定額以上の収益を上げてはならないとしている。さらに清単(貨物リスト)記載以外の私帯貨物を持ち込み押し売りすること、高麗人參·肉桂·鹿茸·麝香·骨董の器物といった高額貨物の携帯、舗民(福州商人)が琉球人と交易して賖欠立票(掛け売り掛け買い)で未払いとなっている古い債務の取り立てなどをすることを禁じている。そして干隆21年(1756年)の冊封使隨行の兵役らが私帯貨物を持ち込み、価格を釣り上げて押し売りし、琉球國で役所の官吏に言いがかりをつけて紛糾した事案(事件)を示し、厳格な取り締まりを行わなかった兵役監督の責任者である都司の陳嘉言等を刑部に送致し、重罪刑を適用して斬絞(斬 首·絞首)の刑、主犯の兵役の陳國棟および仲間として結托した翁元·黄登·朱華·朱文采·林賜·歐元徳·姚章等8名を曬し首、また騒ぎ立て紛争を引き起こした任貴·樑大有·林陞·劉光國等4名は絞監候の刑、その他はいずれも分别して流罪·首枷·鞭打ちの刑に処したとして、今回もこのような違法行爲に対しては一律に厳正に処分すると警告している。

  三、評価貿易の対応と収発文書

  道光18年の冠船二只(頭號船·二號船)は5月4日に福州を出港し、5月9日に那覇に入港している。頭號船で冊封使と共に福州から帰國した評価係りの高良築登之親雲上から改めて頭號船と二號船で評価物の高額品や大量の積み荷を持ち渡らないよう、御迎大夫が撫院や布政司および海防官へ要請し、その通りに許可されたことが報告されている。御迎大夫は単なる冊封使の迎えのために派遣されたたものではなく、評価貿易対策もその重要な職務の一つであったことが知れよう。船戸らが持ち込む圧載貨物の品目や數量を記した海防庁に提出していた清冊については公開されず、船戸らもそれを秘匿していたことから、高良は福州での聞き込みで調査した持ち込むことが予想される貨物の品目·量·福州での時価を詳細に記した一覧を新たに作成し評価方に提出している。5月12日に冊封正使林鴻年·副使高人鑑から、(清國)内地の舗商(商人)で、もし冊封使の隨行人の名義を借りて、私的に琉球の官民に対して舊欠(借金)を取り立てる者がいれば、即刻厳罰に処することを伝え、また冠船2只の貨物は、1只ごとに1,000擔を定額とし、加二の科息を許可するとし、もし規定外に多く持ち込み値を釣り上げて押し売りすることがあれば、実態を評価方に稟文で糾明するよう命ずる「告示」が出ている。翌13日には、福建水師統領府の陳顕生と周廷祥からも両船の隨帯する圧載貨物について、1,000擔の數に加二の科息を加えることを許可し、それ以外に私貨を持ち込み押し売りし紛議を引き起こすことを許さず、冠船二只から密かに私貨を積み下ろす弊害が起きないよう弾圧官に監視·巡逥を命じたとする冊封正使林鴻年·副使高人鑑の「會移」(連盟の指示文書)の内容を伝え、各部署の下士官に対して監視の强化を命じる「告示」が出され、それを翌日、游撃·都司の統制下の兵士たちが持參して親見世の本門の扉に貼り付けている。

  6月3日に、冊封正副使から頭號船·二號船の船戸が書き寫して提出した評価方宛ての貨物の清冊各一冊を項目ごとに逐一検査した結果、撫藩(福建巡撫と布政司)に提出されていた清冊の品目と価格が合致しいるとして、6月15日までに貨物の積み下ろしを終えるよう命じる「告示」が出され、天使館の門に掲示されている。評価方は6月13日までに頭·二號船の貨物の積み下ろしを終えている。慣例では事前に冊封使から貨物の清冊が評価方に送られてきていたが、道光18年の評価貿易では冊封使からの清冊が届かず、6月15日に頭·二號船の船戸らが貨物の清冊を評価方に提出している。評価方は清冊を和文字に書き直した代付帳を表御方(摂政·三司官衆)へ、代付け無記載の品立帳を冊封使の那覇滯在中、城間に移っていた在番奉行へ提出すべく、徹夜でその準備に入っている。冠船來航時の評価貿易については、監視のため在番奉行所の惣横目方から大和横目(那覇士族)2人が那覇の評価方に派遣され、貿易の経緯についても逐次、在奉行番所へ報告することが義務付けられていた。道光18年の評価貿易についてはこれまでと異なり、在番奉行所に「唐物方」が設置され、監視が强化されるなかで評価貿易が始まっている。

  清冊以外の貨物の持ち込みについては、福建巡撫、布政司、海防官からの告示によって厳しく禁じられていたにも関わらず、清冊外の貨物が持ち込まれていた。6月18日に冊封使に対して船戸の金広発と邱大順が「両號船(頭·二號船)は清冊の貨物以外に福州府と海防庁の面諭(口頭での指示)によって許可された蘇木·明礬· 滑石等の品物を携帯し、それを圧載貨物(底荷)用としており、評価館の方で購入することを許可して頂きたい」といった要請を稟文で行なっている。この件については、福州府と海防庁では規定外の貨物の携帯を許可しておらず、また船戸側から出航前にそうした説明を受けていないとして、冊封使は許可しない意向を批文で示している。さらにこの批文の中では、25日に計量を行い、それが終わればすぐに清冊に準拠して実価(福州の相場価格)に加二の科息を加え、公正に交易を行うよう指示が出されていた。冊封使に隨行する者たちが持ち込んだ貨物については、評価方の役人と船戸が立ち會って、まず貨物の品質を検査し、次いで価格を決め、その後で計量し、公平に貿易することが慣例となっていたことから、評価奉行の安谷屋親方、久米村の牧志 裏之子親雲上·上運天裏之子親雲上が天使館へ赴き、阿口通事の取り次ぎで、貨物の品質については良し悪しがあり、それによって価格にも高低が生じることから、今回の船戸らの圧載貨物についても前例通り、まず貨物の品質を検査し次いで価格を決め、その後で計量し公平に貿易することの許可を請う稟文を冊封使に提出している。この稟文は久米村の紫巾官翁成功·中議大夫魏學源·都通事王邦選等の連名で記されている。通常、こうした稟文の回答は「批示」といった回答文書で伝えられるが、この案件については天使館の敷命堂において、冊封使から直接口頭で「今回の評価物の価格については、福州で両船戸から撫院と布政司に申請しすでに許可されているため、どうにも我々では手の打ちようがない。早々に計量して受け取るようにせよ」と要請を認めない回答がなされている。6月28日、監督役として弾圧官と冊封使に隨行した師爺2人が派遣され評価物の計量と受け取りが始まった。翌29日には、さらに冊封使から舊例では評価の一件は諭祭した後、冊封する前に順を追って手続きを進めることになっているとして、7月20日以前に評価を一律に完了することを命じる「告示」が届けられている。評価方は「告示」を表具仕立てにして親見世の門に掲示している。7月6日、両船の船戸貨物すべての計量と受け取りが完了したが、価格交渉においては、船戸らが提出した貨物の「清単」の価格と評価方係りが福州で調査した商品価格との間には大きな隔たりがあったことから、値決めの交渉は紛糾し決着をみることはなかった。そうした中、評価方は冊封使に対して稟文を提出し、窮乏する小國(琉 球)が大きな損失を被ることがないよう売値の減額を懇願し、さらに清冊内の薬剤の血竭と白蔲の2種については、真贋を調べたところ本物ではないため、清冊から取り除いてもらうよう要請している。この稟文も紫巾官翁成功·中議大夫魏學源·都通事王邦選等の連名で提出され、稟文には船戸が提出した清冊の価格と評価係が福州で調査した商品価格の一覧が付されていた。稟文に対して冊封使は、船戸らが提出した貨物価格の清冊は、すでに福建省の各憲(管轄責任者)へ送付され、審査·決裁がなされた上で、藩司(福建布政司)から送られてきたものを受け取ったもので、価格の水増しがあったどうかは判斷しがたく、評価方の提示した福州における価格一覧についても、突き合わせて検討する方法がないため、证拠とするには不都合であるとして、船戸の提出した原冊に基づいて「加二」で計算し、早急に処理すべきであるといった指示を「批示」で出し、まがい物である白蔲と血蝎の2件については返品することを許している。評価方はこうした冊封使の指示に対し、さらに稟文を提出し、船戸の提出した清冊価格と琉球が福建で購入した実勢価格を比較しても価格はすでに倍額となっており、それをさらに「加二」すると、倍増され加四(4割増し)となり、貧窮の小邦が大きな損失を蒙ることになるとして、さらに減額を要請している。この稟文に対して冊封使は、両船隻はともに借り上げたもので、一只につき借上げ料として6,000元餘りの洋銀を支払わなければならず、官艙の改造·船身の修復·旗幟·篷索等の裝備などの費用として各1,000元餘りの洋銀を費やし、また内地(中國國内)の貨物船はみな品目ごとに税を納めなければならず、それにも両船は1,000元餘りの洋銀を費やしており、その他にも倉庫の保管料や運賃、水手·人夫の手當て、貨物の梱包料などに多くの経費が費やされていることから、これらの諸費用を組み込んで全體の価格設定を行うべきであるとして、評価方に対し値決めについは10,000元の減額を許すといった批示を下している。最終的な評価価格は、この冊封使の減額措置によって決着している。

  清冊以外の貨物として持ち込んでいた蘇木·明礬· 滑石等については、一旦冊封使は船戸らの要請を「批示」で拒否していたが、弾圧官がそうした貨物は閩省の府庁(福建省福州府海防庁)から口頭で許可され、圧載用の貨物に當てているもので、船戸の申し出には虚僞や捏造はなく確実な事実であるとして、結詞(证文) を取って報告してきたことから、7月12日に「札」でもって評価方に購入を命じている。通常中國では「札」は上級機関から下級機関に対する指示文書として用いられている。蘇木·明礬·滑石等の値決めについても船戸側·評価方の売値と買値に大きな隔たりがあり紛糾する中、評価方は阿口通事を通じて蘇木100斤につき蕃銭価格6円、明礬100斤につき蕃銭価格4円、滑石100斤につき蕃銭価格1円での購入を許可していただけるよう口頭で要請し、冊封使は明礬と滑石は評価方の値決め通り、蘇木は一枚値上げして7枚で買い取るよう指示している。蘇木·明礬· 滑石等の評価についてもこの冊封使の指示で決着がついている。

  清冊内の貨物については変色したり、箱の底に濕気を含んだり、またまがい物など商品として問題があり評価の対象からはずれ取り除かれたものがあり、船戸側の評価貨物に目減りが生じていた。7月19日に、頭號船と二號船の船戸らが清冊の品々の斤數や銀高などの不足分を補充用の貨物でもって買い取るよう懇願する禀文とそれに対する冊封使の批示を評価方に届けている。その稟文の中で、船戸の金広発と邱大順らは連名で、頭號船の受け渡し売却ができなかった貨物は5,000餘斤で1,200餘円、二號船の受け渡し売却ができなかった貨物は2,000餘斤で600餘円だとし、目減りして受け渡し(売却)ができなかったものの不足分として金広発は洋參、邱大順は魚線·洋參面の補充を要請している。これに対し冊封使は批示で提示された3種の貨物を詳細に調べたところ、その価格は評価司(方)の清冊と合致し、銀數もまた原冊に記載されている総額を超過していないとして要請通りに処理し、清冊の貨物同様、20日以前にまとめて清算するよう指示している。

  船戸らは他にも清冊以外の多くの貨物を持ち込んでおり、7月28日に、以下の品々の買 い取りを評価方に申し出てきた。

  頭號船:山帰來5,000斤、玳瑁35斤、玳瑁5提、龍脳300斤、沈香60斤、蟲糸100斤、山出洋參600斤、本懸洋參400斤、犀角50斤、爪30斤、爪80斤、爪50斤、正延紫600斤、齊布20丸、紗綾80反、檀子70枚、花崥岐20疋、蟲くし8箱、墨入箱1箱

  二號船:玳瑁2提、玳瑁8提、玳瑁80斤、爪6斤、爪80斤、爪6斤、本懸洋參50斤、犀角70斤、蟲糸100斤、正延紫16,000枚、龍脳100斤、大黄1,000斤、山帰來4,500斤、桂皮3,000斤、蒼术200斤、白术200斤、梹榔500斤、棉花2,000斤、清明茶2,500斤、白砂糖3,000斤、氷砂糖2,000斤、半山茶800斤。

  これらの評価物については、王府は評価所ではなく、新たに設置された脇評価所で買い取ることが取り決め、「加二」はつけられていない。

  評価貿易で紛糾したのは貨物の評価をめぐる問題のみではなかった。頭號船·二號船の評価物の価格については、清冊は蕃銭価格立てとなっていたため、評価方は銀子1貫目につき蕃銭110枚で換算することを求め、船戸らは80枚4分での換算を要求したため、折り合いがつかなかった。8月7日に、評価方奉行の安谷屋親方·久米村の牧志裏之子親雲上·上運天裏之子親雲上が天使館へ赴き、琉球銀の換算率について阿口通事の取り次ぎで冊封使に禀文を呈出している。稟文の中で、評価方は毎年福建で兌換される価格を參照し、100両につき蕃銭114元前後で交換しているが、時価が一定せず、2、3元ほど 高下しているため、その割合の基準を百十元としているが、船戸は86元4角の換算を主張し纏まらないことから、福建にて蕃銭による精算をおこない琉球で船戸に渡した原銀を返却してもらう案を提示している。この稟文も紫巾官翁成功·中議大夫魏學源·都通事王邦選の連名により提出されている。稟文に対し冊封使は、8月11日付けの「批示」で銀の換算については100両につき蕃銭100元で決算するよう指示している。しかし、そうした交換率については評価方が承服できない意志を示していたことから、冊封使は阿口通事を派遣し、福州において銀1貫目は十分銀で 何百目に換算することができるのか報告し、もし換算率が異なる場合には弁済する筋合いの「甘結」を提出するように命じている。「甘結」とは保證書のことである。評価方は指示に従い魏學源·翁成功·王邦選の連名で頭號船·二號船から購入する貨物の価格は、従來福建に持ち込んで使用している琉球銀に準じて、100両ごとに紋銀78両に換算したもので、もし換算に問題があれば進貢使の一員に魏學源(牧志裏之子親雲上)を加え福建に赴かせ賠償することを誓約するとした「甘結」を提出している。これを受け冊封使は8月17日に、100両 につき票蕃銭105元とすることを命じ琉球が毎年福州に持ち込む銀の純度と合致させ、決して純度を僞ってはならないとする「告示」を出している。銀の換算についても、一旦この冊封使の告示で決着している。

  中國から持ち込んだ貨物の評価が落ち着くと、船戸らは大量に俵物や諸色を買い付けている。俵物や諸色の中で最も多く買い付けが行われたものは昆布であった。「道光十八年 冠船付評価方日記」には諸色の昆布の買い付けをめぐる収発文書が綴られている。まず8月1日に頭號船·二號船の船戸らが評価方にやって來て、一船につき昆布を150,000斤ずつ購入したいとし、その代銀を尋ねたことから交渉が始まる。俵物や諸色についても、福州から圧載貨物として持ち込んだ商品同様、値決めについては紛糾していた。8月21日に評価司に冊封使からの諭話(指示案件)があることを知らせる「単」が届き、評価方奉行の安谷屋親方と久米村の上運天裏之子親雲上が天使館へ赴いたところ、両勅使から昆布100斤につき蕃銭13枚では餘りにも高値に見えるので、相応に協議し、どこまで値段を下げることができるのか琉球側の荷主と相談して処理するよう指示されている。船戸側は蕃銭4枚での買い付けを主張していた。この値決めについては、その後も繰り返し交渉がなされ評価司が蕃銭七枚まで譲歩し、船戸側も蕃銭5枚と1枚上乗せをした価格を提示していたが、雙方とも互いに対峙して譲らず、9月2日の望舟宴に至っても纏まらなかったことから、9月7日に冊封使から順風が吹いており長々と帰國を引き延ばすことはできないとして、両方の中間を取り蕃銭六枚の値決めを命じる「告示」が出され、それで決着をみている。8月21日には、副使高人鑑が評価方に師爺を派遣し、「諸副使高人鑑は(師爺に)委托し、刺參(煎海鼠)70(擔)、鮑魚10擔、洋燕10擔の購入を処理させる」と記した委托書を提示し俵物·諸色の買い付けを求め、9月5日にも師爺が評価方に派遣され正使林鴻年の所望する刺參と鮑魚の売り渡しを求め、師爺から「正使林鴻年はこの者(師爺)に委托し、刺參70擔、鮑魚10擔の購入を処理させる。9月5日付けで評価館への證明とする」と記した委托書が渡されている。さらに帰國前の9月30日にも冊封正副使から昆布1,3000斤、10月2日には副使から昆布10,000斤程の買い入れ要請があった。評価貿易においては、貨物の持ち込みや琉球での商品購入が禁止されていた冊封使も圧載貨物として商品を持ち込み、帰國前にはこうした刺參(煎海鼠)や鮑魚といった俵物·諸色の買い付けをおこなっていた。冊封使の持ち込んだ商品の売却や俵物·諸色の購入については、師爺が仲介し、冊封使側から値決めについて告示や札で指示を出すことや、評価方から値決めに関する稟文が冊封使に提出されることはなかった。

  評価方による貨物の評価が全て完了し、10月3日に評価方は中議大夫魏學源·紫巾官翁成功·都通事王邦選らの連名で頭號船·二號船の船戸に以下の「甘結」を提出している。

  評価司が購入した頭號船·二號船の貨物の値段は、合計すると琉球銀にして(頭號船は)21,109両9銭5分2厘1毫9糸、(二號船は) 17,729両1銭2分9厘3毫4糸2忽で、相互に包封(包裝)し花押(封印)して引き渡すものとする。船戸が持ち帰って福建に到着した際、兌換してもし洋銀105元に満たない場合は、ただちに魏學源が補填して支払うこととする。もしも銀色(銀の純度)がひどく劣り、銀の補填を多く要求された場合には、ただちに魏學源が銀數に 応じて洋銭(蕃銭)に換算して支払うこととする。なお、船戸は必ず原銀(琉球銀)を魏學源に引き渡すものとする。正に甘結を提出し、寔である(僞りでない)ことを誓約する。

  船戸側も同様に評価方に貨物の評価額を示し、もしも銀色がひどく劣り、銀の補填を多く要求する場合には、価數に応じて洋銭に換算することを認め、琉球で受け取った原銀は全額を返却するといった領狀(受領書)を提出している。銀の換算については冊封使の指示で決着をみていたが、俵物や諸色の買い付けにおいては評価方から支払われた琉球銀が使用されることはなく、この「甘結」と「領狀」で銀の純度の確定については最終的には福州まで持ち込まれていたことがわかる。

  10月11日に、船戸らが購入した評価物の清冊については、冊封正副使と都司へ一冊ずつ提出し、阿口通事両人へも一冊ずつ渡し、一連の評価貿易を終えている。10月12日の早朝、冠船二艘と謝恩進貢船二艘の計四艘立てで那覇を出港したが、二號船は鏡瀬の冲合いを航行しようとした際、淺瀬に楫が掛かり、楫の本木によって艫屋が破損したため、那覇へ引き返し修繕し、10月14日の早朝に出航しいる。

  冊封使一行の帰國後、評価10月23日に評価方は城間村へ赴き、圧載貨物として持ち込んだ「買い立て帳」を在番奉行所に提出し、10月30日に王府に「現成り」の「買い立て帳」を提出している。

  結びにかえて

  以上、道光18(1838)に來航した冊封使(正使林鴻年·副使高人鑑)一行の評価貿易については、「冠船付評価方日記」の中で、告示·稟文·批示·札·単·甘結·領狀といった多種の「収発文書」の存在を確認することできる。「告示」については福州で出海人(船戸·水主·兵役·匠作人)および関係者を対象にしたものと、那覇で評価方や兵役·船戸を含む隨行者を対象にした2種に大别することができる。琉球で布告された「告示」は天使官や親見世に貼り付けられたものと、貼り付けず通告文書(指示文書)として取り扱われたものに大别することができよう。評価貿易における「討価還価」(値決め交渉)については、船戸側は持ち込んだ商品を高値で売りつけようとし、また評価方も船戸側が買い付ける俵物や諸色に相當な高値をつけていたことから紛糾し、雙方の対峙が続き交渉で決着を見ることはほとんどなく、紛糾した事案の多くが冊封使の調停·指示により決着していたことがわかる。銀の交換率における算定についても同様である。評価貿易に関わる荷物の積み下ろしや貿易の開始や終了の時期についても、冊封使の「告示」で通告されている。

  上述したように冊封使も圧載貨物として商品を持ち込み、俵物や諸色の買い付けについては委托書を出していたが、冊封使の持ち込んだ商品や買い付けた商品の評価に関わる告示·稟文·批示·札·単·甘結·領狀といった収発文書は確認できない。冊封使の商品ついてはすべて極秘に処理されていた。福州で出された「告示」で禁止されていた清冊以外の貨物の持ち込みや売却といった違背行爲も公然と行われており、その実態を船戸側から提出された「稟文」や評価方に下された「札」で確認することができる。

  那覇の親見世には評価方の詰所が置かれ、主取·中取·筆者等が詰めていたが、冊封使に対する「稟文」や船戸への「甘結」などは久米村の中議大夫·紫巾官·都通事の連名により提出されている。収発文書は全て漢文の文書である。評価方は親見世のみならず久米村にも置かれており、漢文文書の収発過程においては職能集団である久米村人士が重要な役割を擔っていたことも理解できよう。また評価方からの稟文の提出の際には、常に天使館で琉球側の要請で冊封使に隨行していた阿口通事が協力的に取り次いでいた。阿口通事は福州琉球館で行われた開館貿易でも仲介的な役割を擔い、王府側から謝禮として年例銀が支払われていたが、評価貿易においても琉球側が不利な狀況に陥らないよう働きかけ、「収発文書」の往來でも重要な役割を果たしていたことを指摘しておきたい。

  ※本稿執筆においては、「道光一八年 冠船付評価方日記 (上·下)」(『國立台灣大學図書館典蔵琉球関係史料第四巻』、國立台灣大學図書館、二〇一七年)と「同治三年より同四年迄 評価方日記」「同治五年より同六年迄 評価方日記(上)」(『國立台灣大學図書館典蔵琉球関係史料集成』第5巻、國立台灣大學図書館、2018年)の現代日本語訳と訳注を參照した。

  從《道光十八年 冠船付評價方日記》來看定價貿易

  ——以告示、禀文、批示、札、甘結、單、領狀等的分析爲中心

  赤嶺守

  【摘要】琉球王國的册封始於1404年(永樂2年)中山王察度之子武寧,止於1866年(同治5年)最後一任國王尚泰,共持續了460餘年。史料中可以明確的册封活動共計24次,其中明代16次、清代8次。琉球稱册封時所派遣的頭號船和二號船爲“冠船”,“冠船”上除乘有册封正使、册封副使、隨從外,還載有船主、水手及士兵200人等,人數通常可達400至500人,多時則可達600人以上。册封使船可以運載船底壓艙貨物,因此使節一行多携帶貨物到琉球高價轉賣。琉球臨時設置定價方(司)對貿易進行管理並對各類商品進行了估價,這種貿易被稱爲“定價貿易”或“冠船貿易”。定價時或因中國和琉球雙方的賣價和買價不同,或因貨物中有琉球不需要的高價商品,時有糾紛産生。本文以台灣大學所藏《冠船付評價方日記》爲史料,嘗試對1838年(道光18年)册封使(正使林鴻年、副使高人鑒)一行“冠船貿易”進行論述。

  【關鍵詞】册封  冠船貿易  冠船付評價方日記 
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