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中國評論學術出版社 >> 文章内容

琉球における真宗法難事件の研究の現狀と課題

  【要旨】琉球では、13世紀から17世紀にかけて、日本仏教の一派である真言宗·臨済宗および浄土宗が渡來したが、民衆に仏教は充分浸透しなかった。

  17世紀、薩摩の影響を受けて浄土真宗は禁止されていた。しかし、密かに薩摩の船乗りによって琉球にもたらされ、中山國尼講や中山國廿八日講などの「講」が結成され、游女たちを中心に秘密裏に信仰が続けられていた。

  こうしたなか、3度にわたって信徒が琉球國(のち琉球藩庁)によって逮捕·処罰される法難事件が発生した(1839年「知念仁屋仏像持下り事件」、1853年「中山國廿八日講の法難事件」、1877年「第3次真宗法難事件」)。

  本発表では、琉球藩庁によって信徒が逮捕·処罰され、その後に内務省出張所の介入によって解決を見た、第3次真宗法難事件について見ていく。

  従來、本事件に関する先行研究や資料は必ずしも充分でなかったが、近年新たに資料が発見され、これらをもとに研究を進めた結果、新たに判明した點も多い。

  そこで、本発表では本事件に関する先行研究·新資料、新たな研究などを整理して、その意義や問題點などについて明らかにするものである。

  【キーワード】浄土真宗  東本願寺  法難事件 

  はじめに

  琉球では、中山王·英祖の時代(13世紀)に、僧禪鑑(國籍不明)が那覇に漂着し、のちに極楽寺を建立した。その後、禪宗(臨済宗)·真言宗の寺院が建立された。

  慶長8年(1603)、浄土宗の僧侶である袋中(1552~1639)が那覇に3年間滯在し、のちに『琉球神道記』を著しているが、仏教は民衆に充分浸透しなかった。

  17世紀、薩摩の影響を受け、僧侶は説法や托鉢を禁ぜられ、その地位は低下した。また、同じく薩摩の影響により一向宗(浄土真宗)を禁止したが、密かに薩摩の船乗りによって琉球にもたらされ、中山國尼講·中山國廿八日講などの「講」が結成され、游女(ジュリ)たちを中心に秘密裏に信仰が続けられていた。しかし、天保10年(1839)に第一次法難事件「知念仁屋持下り事件」が、嘉永6年(1853)に第二次真宗法難事件「中山國廿八日講の法難事件」が発生した。第二次法難事件では、中山國廿八日講に所屬していた仲尾次政隆(1810~1871)をはじめとする多くの門徒が捕縛·処罰された。のちに第三次法難事件が発生した際、中心的立場にあった備瀬知恆は法難事件発生當時、奄美におり難を逃れていたのであった。

  明治10年(1877)には「第三次真宗法難事件」が発生したが、本稿ではこれについて検討する。

  次に、琉球における法難事件に関する先行研究および資料について見ていきたい。

  幕末期に発生した二度に亙る法難事件(「知念仁屋仏像持下り事件」(天保10年)、「中山國廿八日講の法難事件」(嘉永6年))について記述したものに、伊波普猷『浄土真宗冲縄開教前史―仲尾次政隆と其背景』、島尻勝太郎『近世冲縄の社會と宗教』、知名定寛『冲縄宗教史の研究』などがある。

  本稿で取扱う明治10年(1877)に発生した第三次法難事件については、東恩納寛惇『尚泰侯実録』(以下、東恩納『実録』)、玉代勢法雲『真宗法難史』(以下、玉代勢『法難史』)、琉球政府編『冲縄県史』第12巻(以下、『県史』)、「史料稿本(尚泰関係史料)」(以下、『市史』)などがあり、先行研究として、菊山正明「琉球処分における裁判権接収問題と真宗法難事件」、山口輝臣「「信教自由」と「國禁」―琉球藩·浄土真宗·内務省―」などがある。近年、科研費「新出資料の調査と分析に基づく冲縄仏教史·真宗史に関する総合的研究」(18K00088、基盤研究(C)、研究代表者:福島栄壽大谷大學教授、連携研究者:知名定寛神戸女子大教授、研究協力者:東本願寺冲縄别院長谷暢史氏·筆者)が採択され、第三次法難事件の研究が進んでいる。

  なかでも、玉代勢『法難史』は、前出の東恩納『実録』などの資料を參照しただけでなく、布教活動を行った田原法水(【寫真1·2】參照)が持っていた資料や伝聞に基づいて書かれたもので、本件の一聯の経緯について詳述したものである。とくに田原の生い立ちから布教にいたるまでの経緯、琉球における活動について詳述しているのみならず、前出の資料には見られない資料を収録しており、のちの研究の基礎となっている。

  しかし、田原の事蹟や引用した資料については、何に拠ったのか具體的に明示されておらず、出張所による事件への介入をはじめとして、事件の詳細については必ずしも言及していない。

  そして、前出の『県史』や『市史』などに収録する資料も、一部にとどまっており全體を網羅しておらず、本件の詳細については不明な點が多い。

  この第三次法難事件について、金城正篤『琉球処分論』は、「この事件は、藩庁獨自の最後の司法権行使となり、かつ、それがくつがえされたことにおいて、「琉球処分」のゆくえを暗示する事件でもあった」、「「琉球処分」は、近代冲縄の開幕を告げる大きな政治的事件であった。真宗法難は、まさにこの「琉球処分」という台風の眼の中でおこった事件である」と述べている。

  しかしながら、前述の通り法難事件に関する資料·研究とも不充分であり、「琉球処分」に関する研究において注目されることはいのが実情である。

  一方、真宗史側からの研究も少なく、維新期の東本願寺について述べた、奈良本辰也·百瀬明治『明治維新の東本願寺 日本の最大の民衆宗教はいかに激動の時代を生きぬいたか 嵐のなかの法城物語』では全く觸れられておらず、柏原祐泉編『真宗史料集成第11巻 維新期の真宗』の解説にわずかに言及があるものの、前出の玉代勢『法難史』のほかに琉球布教を詳述したものはないのが実情である。

  琉球布教と同じく明治初年に行われた、北海道(明治3年)·鹿児島(明治9年)·清國(同)·朝鮮(明治10年)布教については、それぞれ記念志が刊行され、研究も進められているのと比べると、不充分であると言わざるを得ない。 

  本稿では、先行研究や資料のほか、最新の研究成果や近年発見された新資料を用いて、第三次真宗法難事件について検討する。

  一、幕末維新期の東本願寺

  本章では、幕末維新期の東本願寺について述べておきたい。

  幕末維新期、東西本願寺にとって重要な対策の一つに、キリスト教対策があった。長崎をはじめとする開港地に、東西本願寺の僧侶が諜者として派遣され、外國人宣教師と接觸してキリスト教関聯の情報収集につとめる一方、多くの排耶書が執筆された。

  當時、小栗は諜者の監督にあたっており、彼らの報告を本山に提出していた。明治6年(1863)に長崎中教院に勤務しているが、遅くともこの時期には田原と面識を得ている。

  この長崎中教院は、元來僧侶の資格審査を実施する機関として設置されたものだが、小栗の従來の活動と、當時の田原に課せられた任務が、「外教豫防」であったことから鑑みて、キリスト教の監視活動にあたっていたとみて間違いない。

  維新後、東本願寺は本山改革や歐洲において宗教事情視察などを行っているが、當時、宗門内で活躍した彼等の多くは、香院龍温の門下であった。また、當時の真宗僧には廣瀬淡窓によって豊後日田に設立された漢學塾·咸宜園の出身者も多く、琉球布教に関わった田原法水·武宮現真·小栗憲一、中國布教を行った小栗栖香頂·鬆本白華(大坂咸宜園出身)·渡辺徹鑑、朝鮮布教を行った奥村圓心などがいた。そして、小栗憲一やその兄で中國布教を行った小栗栖香頂のように、香山門下·咸宜園雙方の出身である真宗僧も少なくなかった。なお、のちに小栗と法難事件について會談し、琉球処分官をつとめた鬆田道之も咸宜園出身であった。

  江戸期を通じて幕府と関係の深かった東本願寺は、明治維新により幕府という後ろ楯を失い、新たに明治新政府との関係を搆築することが重要な課題となった。

  東本願寺は江藤新平·三條実美等との関係を搆築したが、彼等が征韓論(明治六年の政変)により失脚したため、新たな後ろ楯となったのは大久保利通であった。

  大久保が内務卿であった期間(明治7年11月28日~11年5月14日)に、東本願寺は琉球(明治9年5月)·清國(同年8月)·鹿児島(同年9月)·朝鮮(明治10年10月)で布教を開始しているが、大久保は禁教であった鹿児島への真宗布教を推進したほか、朝鮮布教にあたっては激勵の言葉を與えたとされる。當時、大久保は内務卿として琉球に対する一聯の処分を行うこととなり、この真宗法難事件についても大きな影響力を持ったものと思われる。

  なお、東本願寺は明治9年(1876)5月、田原を琉球に派遣し布教を開始しているが、同月には熊本鎮台から第1分隊の派遣が通知され、兵営の敷地18602坪が陸軍省出張官吏に引き渡された。同月17日、太政官達により藩庁が有していた裁判権は接収され出張所へと移管され、藩庁は藩民同士の間に発生した民事·刑事事件にのみ警察権を有することとなった。そして、7月26日に、判事を兼任した内務小丞木梨精一郎が鎮台分遣隊·警察官(15名)をともなって内務省出張所(以下、出張所)所長に着任し、8月1日から出張所によって刑事民事に関する裁判事務が開始された。

  二、琉球布教の開始

  本章では、田原法水らによる琉球布教について、新資料「田原法水略歴」(善教寺蔵)等をもとに見ていきたい。

  明治6年(1873)2月、田原法水は教道職十四級試補となり長崎中教院に出頭を命ぜられたが、當時長崎中教院の責任者となっていたのは小栗憲一であった。なお、同月にキリスト教を禁ずる高札が撤去された結果、キリスト教の禁止は解かれたものの、政府はキリスト教を公認したわけではなく、「黙認」するという狀態となった。同年7月、田原は「外教豫防ノ命ヲ帯ビテ、長崎県西彼杵郡三重村正林寺並ニ神浦村光照寺ノ間ニ、約三年間駐在布教ヲナシツヽアリシガ、其目的ヲ達シ難キヲ見テ、同志武宮観源(今ハ現真※長崎)、自見凌雲(※大分寒田西福寺衆徒)、清原競秀(※築後三井郡三沢光明寺)ト謀リ、琉球開教ノ視察ヲ企テ」たのであった。

  つまり、政府によるキリスト教「黙認」後も田原たち真宗僧によって、キリスト教の監視活動は続けられていたのである。

  田原は半島(現長崎市·西海市)でキリスト教の監視活動にあたることとなったが、同地の多くは舊大村藩領(一部は佐賀藩の飛地)であり、潜伏キリシタンのいる集落が各地に點在しており、田原が駐在した正林寺(現:長崎市三重町)·光照寺(同市神浦江川町)の信徒中にも潜伏キリシタンが存在した。なお、この田原らの活動と、小栗が監督をつとめていたキリスト教を監視する組織「監部」との関係は不明である。

  一方、明治9年(1876)3月に信行寺(現:西海市崎戸町本郷)住職であった清原昇道が本山に琉球布教を上申した「長崎県下清原昇道·申立候琉球藩内弘教ニ而之件」(本山寺務所長篠原順明宛)によると、明治7年(1874)3月に、石垣島の夏林姓石垣親雲上をはじめとする49名が乗った琉球船が近隣の蠣浦(西海市)に漂着した際、清原は彼らから琉球(石垣島)について聞取した記録を殘している。この一件も田原らが琉球布教を目指すきっかけの一つになったものと思われる。

  この間、長崎で彼らは「陸軍琉球分遣隊」少佐、舊大村藩士の和田勇馬が鹿児島にいると聞き、和田の親戚である楠本正七の添書を得て、明治9年(1876)4月18日に長崎·三重村を出発した。三角港(熊本)や阿久根を経て、5月8日、鹿児島に到着し和田少佐に面會し琉球布教の計劃を告げると、部下の藤井少尉の同行を確約した。同23日、田原は軍用船·大有丸に乗船し鹿児島を出発、25日に那覇港に到着した。

  その後、田原法水は田原裏治と変名し、信仰の中心人物であった備瀬知恆と接觸し、辻游郭を中心に秘密裏に布教活動を行い、信者を獲得していった。

  しかし、「琉球上申書類綴込」によると、「本派不帰向ノ備瀬(親)雲上ナルモノ、强情ニ我社ヲ别ニ立テ、兼テヨリ帰仏ノ徒ニハ該社ニ入レ令サルノ策ヲ施シ雲ク、今清原·田原等ノ社ニ入ル事勿レ、若シ入社セハ、追テ大切ノ事ヲ生スヘシ、入ルヘキトキニハ我モ共ニ入社スヘシ」とあることから、現地で信仰の中心人物であった備瀬と、布教活動にやってきた田原·自見の間には確執があり、布教は必ずしも順調ではなかったようである。

  7月25日、細川千巌·武宮現真の盡力により本山教育課から35円が下附され、自見凌雲が那覇に到着した。

  10月4日までに信者52名を獲得した。狀況報告と援助要請のため、田原は同月5日、自見を殘して単身鹿児島へ向かった。鹿児島で細川千巌に狀況報告を行い、11月16日に清原競秀を伴って那覇に戻った。 

  同月から信徒3戸に仏像を安置し、毎月4日·25日·28日に講を行うこととなり、同月28日、はじめて報恩講を実施した。12月、琉球布教を本山の事業とするよう再度請願している。

  明治10年(1877)、西南戦争が発生し送金が途絶えたため、出張所員の小川長秋に借金をしたが、8月22日にようやく本山教育課から152円を受領した。

  三、法難事件の発生

  明治10年(1877)10月22日、琉球藩庁のによって信者が一斉逮捕·投獄された。

  おしりも、同年5月に東京駐在の藩吏を通じて西本願寺の琉球布教計劃が知らされたため、藩庁は证文案を発行して真宗に対して警戒を强めていたが、さらに、同年8月の『大阪日報』に知念親雲上·太田親雲上·大城築登之の3名による本山參拝が報導され、事態はより一層緊迫していたのだった。信徒逮捕前の不穏な様子が、「琉球上申書類綴込」に記されている。

  法難事件発生の翌23日、田原は出張所に出頭し、所長の早瀬則敏に事件について説明したが、早瀬は「事情憫然ト雖トモ、地方ノ政務ハ官ヨリ藩庁ヘ依任ニナリ居ル故、仕方ナシ。並シ裁判ノ件ハ必ズ該出張所ノ所管タリ。仍テ藩民ナレドモ裁判件ハ訴ヘ出ル筈ナリ。申ス迄モ無キ·ナレトモ、此事情具サニ其管長ニ上申シ、官省ノ手數ヲ経ナクテハ不可ナラン。幸在京ノ三司官親方等ニ照會ノ·可然」と述べ、警察権は藩庁が有し、裁判権は出張所に所屬するため、現時點で出張所は介入できないとの見解を示したのであった。

  11月12日、田原は「内務省出張ノ内示モアリテ急速上京シ、本山ニ事情ヲ具申シ其処置ヲ訴」へ、本山に上申書を提出するとともに、同月25日に管長·大谷光勝(厳如)から内務省へ願書を提出した。

  明治11年(1878)1月、田原は「山命ニヨリテ御直書ヲ奉戴シ東京ニ到リ」、當時東本願寺の後ろ楯となっていた内務卿の大久保利通に、「琉球ノ現況ヲ具申」した。

  『朝野新聞』(明治11年1月4·6·8日)に田原の日記等が掲載され、事件の一聯の経緯が報導された。『朝野新聞』の主宰者である成島柳北は、明治初年に淺草本願寺で教師をつとめ、新門主·大谷光瑩(現如)の海外視察に同行するなど東本願寺と近い人物であった。そのため、同紙の「論説」(1月9日)や「雑録」(1月15日)は、東本願寺の布教を後押しする内容であった。

  こうした狀況の中で、2月27日に藩庁は裁判を行い、門徒6名は流刑に、約260名は罰金刑に処せられた。

  同月、田原は大谷光勝(厳如)の書翰を携え琉球へ戻り、藩庁と門徒の釈放·布教を巡って交渉を行った。

  4月29日、藩庁は田原に対し布教を許可しない旨回答し、5月6日には藩庁から大谷光勝宛に布教を禁止する旨の書翰を提出した。その後、6月に田原は出張所の許可を得て泉崎に仮説教所を設置し布教を開始したが、これに対して藩庁は同月12日に出張所宛に布教禁止の願書を提出している。

  その後、7月に東本願寺は小栗を琉球に派遣し、藩庁との折衝を行うことになるが、これに先立ち大久保系統の内務省大書記鬆田道之·大蔵大書記官吉原重俊との會談が行われている。

  この會談における鬆田·吉原の発言は、「琉球応接綴込」(善教寺蔵。以下、「綴込」)中の「琉球藩信徒処分事件ニ付、鬆田内務大並ニ吉原大蔵大書記官ニ承合候処、示諭之趣概畧左ノ如シ」に収録されており、日本政府の対処方針を知ることが出來る。

  鬆田の発言の概略は以下の通りである。

  信徒の拘留は警察権の範囲内に屬するもので、琉球藩庁に任せるべき事件であり、政府があれこれ指図できるものではない。今回、信徒を流刑·罰金刑に処したことは、裁判権の範囲にあたるものであり、政府に伺なくこのように処分することは認められない。内務省が藩庁による裁判権の行使を知った以上は看過できない問題であるので、藩庁による処罰を東本願寺から詳しく報告すること。政府はその報告を受理し、直ちに出張所の警察にひそかに事件の事実関係を調べさせ、間違いないことを確認したのち藩庁へ訊問する。東本願寺が内務省に提出する報告書は、東本願寺が原告となるべきではなく、しかも秘密の報告書を差出すように見えてはならない。本山からこのような事件のなりゆきによりやむ得なく琉球に派遣させる理由を詳しく述べるのがよい。そうすれば本山は人員を琉球に派遣することによって報告するかたちとなり、原告または探偵のように見えず、政府としては報告を受けて初めて藩庁が裁判権を侵害したことを発見する順序となってよい。藩庁と會談を行う際、内務省出張所へ取次などを依頼することはできない。なぜならば、藩庁はますます疑いを生じ、政府と本願寺とは一體となっているように誤認してしまうだろう。また、宗教は政治とは全く别のものであるが、この點についても藩庁へ質問してみるのがよい。直ちに藩庁と會談すれば、藩庁の意図もわかることもあるだろう。

  次に吉原は、「何トナレハ現今、耶蘇教未タ公許ナキニ付、外國人民口情アルト同一般ノヿユヘ、强テ該藩ヘモ応接ノ口実トハ爲サルヲ可トス」と述べ、日本政府がキリスト教を公認していない現時點においては、外國からの抗議を避けるためにも、宗教上の理由(信教自由)で政府が介入·取締を行うことは適切でない、と言明したのであった。

  このように、本會談において東本願寺と日本政府との間で問題となったのは、①藩庁による裁判権の行使、②藩庁による信教自由の侵害、の2點であった。

  しかし、日本政府は諸外國への配慮から信教の自由については觸れず、裁判権の侵害を問題視し、東本願寺からの報告をもとに藩庁を追及する方針をとることになったのであった。

  「琉球応接綴込」には、小栗により作成されたとみられる琉球藩庁との會談方針である「琉球藩庁江応接見込按」(第1~3着)等が収録されており、第三着には本山重役の承認印がある。その後、7月に小栗自身が琉球に出張し、藩庁との交渉にあたることになる。

  四、小栗憲一の琉球派遣

  7月、小栗憲一は膠着した狀況を打開するため琉球に派遣され、田原に替わって藩庁との折衝にあたることとなった。以下、小栗が著した「琉球日記」(善教寺蔵。以下、「日記」)をもとに見ていきたい。

  7月19日、小栗は三島秀亮とともに那覇に到着した。翌20日、内務省出張所内警察署に「御届」を提出し、その後は内務省出張所長の木梨精一郎や、同所員の川崎弼(内務四等屬兼判事補)、伊藤忠雄(内務五等屬兼判事補)を訪問し、琉球出張の事情を告げている。

  24日、小栗は藩庁宛に25日に面會したい旨の書翰(甲·第一號)を送っている。これに対して、藩庁側は多忙のため延引したい旨、書翰(乙·第一號回答)で回答した。小栗は書翰提出後および藩庁からの回答受領後に出張所を訪問していることから、木梨や出張所員と対策について話し合ったものと思われる。

  25日、小栗は藩庁に対し、書翰(丙)をもって再度面會を申込む。その後、藩庁より再度延引したい旨の書翰(丁)にて回答があった。なお、小栗は同日、識名園で開催された宴會(出張所官吏の送别會)に參加している。

  26日、これに対して小栗は書翰(戊)をもって藩庁へ再度面會したい旨述べている。その後、藩庁より書面にて回答があり、8月2日に面會することとなった。

  同日、小栗は本山の寺務所長であった篠原順明に宛てた書翰の中で、藩庁の対応に対する不満や、木梨や出張所員から理解と支持を得た旨について記している。

  その後、「日記」によると、29日には「木梨宅訪問「縷々説アリ」」とあり、30日および8月1日に末広直哉警部補が、31日に原上肇警部が小栗を來訪しているほか、會談前日の8月1日には小栗が木梨を訪問しており、藩庁との會談をいかに行うべきか、小栗と出張所員との間で対策が話し合われたものと思われる。

  五、琉球藩庁との會談

  8月2日、首裏城内において東本願寺と琉球藩庁との交渉が行われた。

  「日記」によると、東本願寺から小栗·田原·三島が、藩庁から親裏(伊舎堂盛英)·阿波根·摩文仁の各築登之が同席し、會談では、①書面上雲雲之件、②贈品返戻之件、③信徒処分寛大之件、の3點について話し合われた。

  この會談において小栗は、「琉球布教の儀は去る明治九年中、支那朝鮮布教に際し内國の近きを措いて外國の遠きを先にすべき道理なしといふ議論より之れを元教部省へ届出て田原法水等を派遣せしなり」と述べ、内務省から「布教の儀は官許を受くるに及ばざる筋と可相心得事」との指令があり、布教に関しては官許を受ける必要がないこと、舊薩摩すなわち鹿児島ではすでに真宗を解禁済であること、門徒への刑罰は他の刑罰と比較して苛酷であることを主張した。これに対して藩庁は、「當藩内地と異なり、人民殊に頑固にして、内地の如く開けざる故宗旨二派になりては相互に紛議を生ずる故に御斷り申せり」と述べたほか、門徒の処罰は法律に基づいており適正であるなどと主張した。

  帰宅後、小栗は藩庁宛に門徒の釈放を求める旨の書面を出している。しかし、藩庁からの回答はなく、8月4日に小栗は回答を督促する旨の書翰を出している。

  翌5日、藩庁からの回答があったが、信徒の釈放は出來ないというものであり、藩庁から管長·大谷光勝宛の書翰を同封したのであった。

  同日、小栗は藩庁宛に前述の回答に反駁する旨の書翰と、琉球における布教規則である「説教條規」十一款、「説教規則」六條および「條約案」を提出している。

  この「説教條規」第一款に「王法爲本ノ宗規ヲ以テ藩王ノ制令ヲ遵守セシムヘキコト」とあるが、すでに小栗は8月2日の対談で藩庁に対して、「真宗は二諦相資の宗義にして王法爲本を主張する故支那にありては支那の王法を本とし、日本に在ては日本の王法を本とす、豈琉球の藩政を妨げんや」と述べている。つまり、東本願寺は真宗の教義である「王法爲本」に基づいて、琉球藩王が定めた法令を遵守するとして、内地とは異なる解釈を用いて布教を進めていく點について明文化したのであった。

  この點については、小栗の兄である小栗栖香頂の中國渡航の影響があったと考えられる。香頂は明治6年(1873)7月に北京に渡航し、小栗に書翰を送っているが、小栗はこれを整理した「支那開宗見込」を本山に提出している。この中で、香頂は中國布教にあたっては、本堂に阿彌陀如來のほかに太神宮や孔子も祀ることを提唱しており、現地事情にあわせた布教活動を摸索していたのであった。

  8月6日、小栗は藩庁に対して書翰を送り、その後も引き続き書面による交渉を続けたが、藩庁は従來通り回答の延引を行うとともに、両者とも従來通りの主張を述べるにとどまった。

  六、内務省出張所の方針転換と尚泰告訴

  8月20日、東本願寺は藩庁が小栗に宛てた書面の中で同人を誹謗する旨の記述があったとして、田原法水·自見凌雲が原告となり琉球藩王·尚泰を出張所長·木梨に告訴したのであった。以下、「綴込」より引用する。

  右原告、田原法水、自見凌雲申上候、私共去ル明治九年十月元教部省江届済ノ上、當藩ヘ出張布教仕、人民各自ノ望ニ応シ適宜教諭仕候処、當

  藩真宗禁止ノ儀ハ元ヨリ承知不仕、且ツ藩庁ヨリ御達モ無之候。然処、今般藩庁ヨリ别紙寫之通リ、小栗憲一江來書中、私共陰謀雲雲ノ文言相

  見ヘ、右ハ全ク私共ヘ悪名ヲ加ヘ誹謗候儀ニ有之、右書面本山江相回リ本宗教會公佈相成候テハ、私共陰謀ノ悪名ヲ蒙リ、終身ノ名譽ニ関シ教

  道ノ職分不相立儀ニ付、右無実誹謗ノ悪名刪除致度、此段御裁判被下度奉願候也。

  「日記」によると、同日午後に木梨は小栗を出頭させ、従來日本政府の態度として、東本願寺が政府·出張所に対して調停を依頼することは、政府と東本願寺が通じているように思われるため不可能としてきた。だが、このたび木梨は政府から本件を解決する権限を委任されたので、東本願寺が出張所に調停を依頼する形式をとり、これに応じて出張所が設定した會談の場で、藩庁による信徒の処分を出張所が直接譴責することとなったのである。

  このため、東本願寺は同日、出張所に対して書面を通じて調停を依頼するとともに、藩庁に対しても出張所に調停を依頼した旨、書面を通じて通知した。

  翌21日、出張所は東本願寺および藩庁に対し、明22日午後7時30分までに出張所へ出頭を命じたのであった。

  七、内務省出張所における対弁

  8月22日、午前7時、東本願寺から小栗·田原·三島が、藩庁から親裏·阿波根·摩文仁が出張所に出頭し、木梨ら出張所官吏立會いのもとで両者の対弁が行われた。

  「琉球日記」(善教寺蔵)によると、「対弁」は午前7時50分に開始され、11時に晝食のため中斷し、午後12時から4時まで再び行われた。その後、午後5時から6時まで「推問」が行われ終了した。 

  この対弁を記録した、「琉球出張 対辨筆記 秘密実録」(善教寺蔵。以下、「対辨筆記」)によると、対弁の冒頭、出張所の警部は行政警察の職分として、雙方の意見を聴取することになったが、會談冒頭に出張所から藩庁に対し、裁判権の行使について詰問があったのである。その後、東本願寺·藩庁雙方の意見陳述が行われたが、従來と同じ主張を繰り返すにとどまった。

  午後4時30分、席を改めて小栗と田原が原告となり、再び対弁が行われた。その席上において出張所の警部は司法警察の立場として、藩庁は裁判権を認められていないにもかかわらず、裁判を行い信徒を処罰したことは、日本政府が有する裁判権(司法権)の侵害にあたると述べ、藩庁に対し24日までに始末書の提出を命じた。

  24日、藩庁は出張所に始末書を提出したが、出張所警部は藩庁の印章がないとしてこれを受理しなかった。これに対して阿波根築登之は、重大事件は藩王の印を用い、その他は三司官(親裏·阿波根·摩文仁)の自印章を用いており、藩庁の印章はないと述べたが、警部は新たな印章の作成を命じ、阿波根はこれに応じた。そして、26日に阿波根は改めて書面を提出するとともに、三司官の進退伺を提出した。

  このように、藩庁は事実関係を認め始末書を提出したが、「田原法水略歴」(善教寺蔵)には、「此時(※対弁)、若シ彼等ニ於テ事実ヲ隠敝スルガ如キコトアラバ、小栗憲一、田原法水等ヨリ告発ニ及フ〔筈ニ〕、列席スベク内命アリタリキ」との記述があり、藩庁が異なる事実関係を述べた場合には、さらに追求するつもりであった。

  なお、25日に小栗は藩庁から「藩王殿ヨリ大谷大教正へ御返禮」として、布地·焼酎などを受取っている。8月28日には、書面中の「陰謀雲々」という文言は山城築登之による誤寫であったとして、取替えたいとする旨の書翰を受取り、翌8月29日には木梨に対して和解を行う旨を述べている。

  この會談について、東恩納『実録』に、「八月廿二日、藩吏と布教委員と内務省出張所に於て対決したる結果、田原等が藩令を屈り隠密に布教したるは責む可しと雖、又藩庁か信教自由の大政官令に背き、恣に門徒を処罰したるは、違法たりと雲ふに決し、左の始末書を徴せられたり」とある。

  しかし、金城正篤·菊山正明·山口輝臣各氏が指摘している通り、出張所は藩庁による裁判権の行使を問題視したのであり、信教自由については何ら言及しておらず、善教寺に所蔵する「日記」、「対辨筆記」等の資料や、『県史』、『市史』中にも、信教の自由について觸れた形跡はなく、東本願寺が問責された事実についても確認できない。本稿では新資料のほかに、『市史』(「史料稿本(尚泰関係資料)」を用いたが、今後の課題として「尚家文書」(原本)を使用して、この點ついてさらに検討する必要があろう。

  小栗が琉球出張を行う前に開催された政府要人會談では、政府は信教の自由については觸れず、藩庁が裁判権を行使したこと自體を問題視する旨を述べているが、この事前の決定にしたがってこの対弁も進められたのであった。

  なお、「対辨筆記」では、木梨が小栗に対して本件について、これまで琉球で発生した四大事件の一つであり、本件は裁判権が政府に屬することを明確化することができた「好機會」であった、と以下のように述べている。

  (※八月)廿七日 木梨曰、此度ハ実ニ琉球ニ於テハ一大事件ニシテ、(※欄外冒頭 過日貴君渡海已來、藩庁総掛リニテ晝夜赤心セリ)。先年佛國軍艦ノ応接、其後鬆田大丞ノ応接、其次ニ拙者ノ応接、今度本願寺ノ応接ハ、第四ノ大事件ナリ。大教正ノ信徒ヲ愛恤シ、宗門ノ義務ヲ重ンスルハ感スルニ餘リアル·ニシテ、當藩是迠裁判権ヲ私用シ、當内務出張所ニ於テモ、未タ國権ヲ振起スルノ機會ナキ処、此度貴君ノ応接ヲ好機會トシテ、警部ヲシテ雲雲ヲ達セシムルナリ。(※欄外冒頭 実ニ朝廷ニ対シ奉リ、賀スヘキ美事ト雲ヘシ)。不日、彼対弁ノ趣ヲ以テ追々推問ヲ遂ケ、両屬ノ名義ヲ消滅シ、藩王ヲ改メ知事ト致ス·モ遠キニ非ルヘシ。又曰、今般藩王進退伺ヲ差出ス故ニ、一往政官ニ御指揮ヲ受ケ、而後藩ノ官員ヲ罰シ、而後信徒ノ流刑ヲ免シ、罰金ヲ返却セシメ、而後教法自由ノ儀ヲ達スヘシ。此順序アル故ニ、三、四十日ノ後ナラテハ、説教ノ公開ニハ至ルマシク、何分一ヶ月一度ノ便船ユヘニ、急ニ埒明兼ネル·也(以下略)

  八、琉球処分後の布教活動

  8月29日、小栗と三島は乗船し、9月11日に京都へと戻った。

  その後、10月25日に内務卿·伊藤博文から琉球藩庁に対して処分命令が下った。

  翌明治12年(1879)3月、鬆田道之は琉球処分を通達し、4月4日、琉球藩は廃止され新たに冲縄県が設置された。

  同月、田原を殘してその他の僧侶は内地へと引揚げた。

  その後、明治17年(1884)には説教場が設置され、明治22年(1889)には琉球别院となった。明治25年(1892)には琉球别院を廃止して、これを一般末寺に編入し真教寺となり、翌明治26年(1893)に田原は同寺第一世住職となった。

  このほか、田原は明治14年(1881)12月に冲縄監獄説教許可を受け、監獄での説教を開始した。明治21年(1888)には垣花監獄教誨師となり、明治44年(1911)には出獄人保護事業冲縄自営會を設立した。同年、村上専精が冲縄を訪問した際、有志によって田原の功績を顕彰した記念碑を設立しようという機運が高まり、大正元年(1912)に寄附によって奥武山公園に石碑が建立、翌大正2年(1913)秋に撰文がなされ、大正4(1915)年4月に「田原法水紀功碑」(【寫真2】參照)が落成した。

  大正11年(1922)には、田原は監獄の教誨師や出獄者の保護事業に盡力したとして、司法大臣から免囚保護事業功労者として金杯および賞狀を下賜され、冲縄自営會も大正12年(1923)以來、毎年宮内省奨勵金を下賜されるようになった。昭和2年(1927)2月15日、田原法水は85歳で歿した。

  その後、昭和19年(1944)10月10日の十·十空襲により寺院は全焼し、戦後は境内が米軍に接収され倉庫が建設された。本土復帰時に返還され、昭和50年(1975)4月に本堂が再建され今日に至っている。

  おわりに

  以上、本稿では新資料をもとに、真宗法難事件について検討してきたが、以下の點について明らかにできたと考えている。

  従來、本件についての先行研究や資料は少なく、不明點が多かったとされる本件であるが、新資料を見ていくことにより、とくに琉球布教にいたるまでの経緯、東本願寺と内務省·出張所との関係を具體的に明らかにできたほか、従來知られていなかった田原法水·自見凌雲による尚泰の告訴などついて明らかにできた。

  前述の通り本件では當初、主な争點となったのは、藩庁による信教自由および司法権の侵害、の二點であった。

  この點について、東本願寺は小栗憲一を琉球に派遣し、藩庁と折衝することとなったが、派遣前すでに東本願寺と大久保係の日本政府要人(鬆田道行·吉原重俊)との間で事前協議が行われ、信教の自由について議論することは対キリスト教の関係上困難であるため、司法権の侵害を論點とすることとなった。

  そして、この會談をもとに小栗は藩庁との折衝案を作成し、本山の同意を得て琉球へと向かった。

  那覇到着後も木梨をはじめとする出張所員と頻繁に接觸し、藩庁の回答について報告するとともに対策が話し合われ、これをもとに小栗は引き続き藩庁と折衝にあたったのであった。

  8月22日、出張所で行われた対弁は、政府から権限を委任された木梨が、東本願寺の依頼によって行われた形式をとった。當初の予定通り、司法権を侵害したことを譴責するものであり、これにより藩庁は出張所に対して始末書を提出した。政府にとってこの法難事件は、當時必ずしも明確ではなかった琉球藩内における司法権が日本政府に屬することが確認された「好機會」であった。

  琉球処分後、東本願寺は寺院を設置し、監獄説教·免囚保護事業なども行ったが、琉球と同じく禁教地であった鹿児島県とは対照的に、信徒を大量に獲得することなく、政府から積極的な支援を受けた形跡は見られない。

  日本政府にとってこの真宗法難事件は、司法権が日本政府を明確にする「好機會」ではあったが、鹿児島県のように真宗による布教活動をすすめることによって、民心を安定させようとする意図はなかったものと思われる。また、海外布教に積極的であった大久保利通が暗殺された後、政府内では方針が転換され、琉球·清國·朝鮮布教に積極的でなくなった可能性がある。

  なお、東本願寺は琉球布教を開始した時期に、上海(明治9年)·釜山(明治10年)においても布教活動を行っている。布教にあたっては大久保利通らの激勵を受けたとされるが、実際には政府の積極的支援を受けた形跡はなく、現地人の信者を殆ど獲得できなかったのである。 

  とくに、清國では日清修好條規によって布教権が明記されていなかったため、歐米列强のキリスト教宣教師のような布教活動を行うことが出來ず、本山の内紛が生じたため、明治12年(1879)に布教活動を縮小し、明治16年(1883)には一時中斷した。明治18年(1885)に活動を再開したが、対象は在留邦人であった。

  一方、東本願寺は琉球で布教を行う際、「説教條規」などを作成し、真宗の教義である「王法爲本」について、内地とは異なる解釈を用いて布教活動を進めて行こうとした點は注目に値する。

  この點については前述の通り、小栗の兄である小栗栖香頂の中國渡航の影響があったと考えられる。

  明治31年(1898)、小栗は連枝とともに韓國を訪問し、皇帝と面會している。この時、小栗は「真宗ハ王法爲本ノ宗義ナレバ韓帝及ビ皇太子ノ尊牌ヲ别院ニ安置スルコト」などを奏上し、朝鮮布教においては設置する尊牌を、天皇ではなく韓國皇帝としているが、これは琉球における法難事件の経験を參考に行われたものだと思われる。

  明治30年代、小栗は本山議制局長をつとめ宗務に関與するとともに、内地雑居反対を唱えるなど、引き続きキリスト教対策に従事したのであった。

  冲縄では、明治30年代に西本願寺が、大正期になると日蓮宗や曹洞宗や他宗派も布教を開始している。しかし、日本本土とは異なり檀家制度がなく、民間において仏教の影響が少ないという歴史的背景を持つ冲縄においては、同じく禁教地域であった鹿児島や、明治初期に布教を行った北海道などと比べると、今なお布教活動は順調に進んでいるとは言い難い。

  〈資料〉

  謝辭 本稿執筆にあたって、下記の諸氏、寺院、機関には、資料の閲覧·撮影等に御高配を賜りました。記して感謝申し上げます。

  正林寺、真教寺、信行寺、真光寺、善教寺、知名定寛、長谷暢、東本願寺冲縄别院、東本願寺鹿児島别院、日田市教育庁咸宜園教育研究センター、福島栄壽

  (継承略、五十音順)

  附記 本稿は、科研費「新出資料の調査と分析に基づく冲縄仏教史·真宗史に関する総合的研究」(18K00088、基盤研究(C)、研究代表者:福島栄壽大谷大學教授)の研究成果の一部をなすもので、拙稿「明治期の琉球における真宗法難事件」(拙編『浄土真宗と近代日本―東アジア·布教·漢學―』、勉誠出版、2016年)を加筆·訂正したものである。

  在琉球發生真宗法難事件的研究和意義

  川邊雄大

  【摘要】13世紀到17世紀,日本佛教的真言宗、臨濟宗和净土宗先後傳入琉球,但並未在民衆中得到普及。17世紀初,在薩摩藩的壓力下,琉球不得不開始禁教净土真宗。

  事實上,薩摩的一些船員,通過組織“中山國尼講”、“中山國廿八日講”等“講”(信仰結社),以妓女爲中心進行秘密傳教。

  在此期間,發生了三次信徒被琉球國(之後的琉球藩廳)逮捕鎮壓的法難事件 (1839年“知念仁屋佛像持下事件”, 1853年“中山國廿八日講的法難事件”,1877年“第三次真宗法難事件”)。

  本發表主要圍遶“第三次真宗法難事件”展開。1877年琉球藩廳逮捕並對信徒進行處罰,後經由内務省出張所(那霸)介入得以解决。關於這次法難事件的研究和資料並不多見。近年,本人收集並整理了與相關的研究資料,并發現了一些新出史料。本發表將在新發現的各種史料基礎上,對這一事件進行詳細解讀,並闡明其意義所在。

  【關鍵詞】净土真宗  東本願寺  真宗法難事件  琉球藩廳  内務省出張所 
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