【要旨】『明実録』や『歴代寶案』に記された山南王は、承察度·汪応祖·他魯毎の三王である。
『球陽』に記された三王の最後は、初代の承察度は「永楽元年、承察度薨じ」とあるだけであるが、二代目の汪応祖は「兄達勃期、応祖を謀弑し」とあり、兄によって殺されたとある。三代目の他魯毎は、「中山巴志曰時至矣哉遂自率四方按司親往征之山南百姓喜躍拝迎他魯毎頨怒率軍出戦大敗而走將入門時城上放箭閉門拒御他魯毎前後受敵無力可施被擄伏誅」(中山巴志、遂に自ら四方の按司等を率い、親ら往きて之れを征す。(中略)他魯毎ますます怒り、軍を率いて出で戦い、大敗して走る。將に門に入らんとするの時、城上より箭を放ち門を閉じて拒御す。他魯毎前後に敵を受け、力の施すべき無く、擄にせられて誅に伏す)とある。ところが、糸満市字糸満の山巔毛には、「他魯毎が、中山の討手の爲めに妻子と共に逃れ來り、愈々事迫りたれば王自ら愛妻を手打にして自刃せし処である」という話があり、その中腹にある按司墓が他魯毎の墓であるという。
山南の三王の中で、陵墓が知られている王は、最後の他魯毎だけである。他の二王については未確認である。汪応祖を山南王に封ずるとき、中國皇帝は使を遣わしているので、承察度の諭祭を行ったと思われる。また、汪応祖も他魯毎の冊封の際に諭祭を受けているので、二王の陵墓があるはずであるが伝承されていない。
本稿では、これまで南山研究の俎上に載せられることのなかった山南王他魯毎の最後と、薨去後に葬られた王の墓について、考えてみたい。
【キーワード】山南王 他魯毎 墓 按司墓
一、正史にみる山南王他魯毎の最後
まずは、琉球の正史である羽地朝秀の『中山世鑑』をはじめ、蔡鐸本『中山世譜』、蔡温本『中山世譜』、『球陽』、さらには山南王汪応祖の子孫である『阿姓家譜』に、山南王他魯毎の最後がどのように記述されているかを見てみることにする。
①羽地朝秀『中山世鑑』にみる山南王他魯毎の最後
1650(慶安3·順治7)年に大嶺象賢(羽地朝秀)が編集した『中山世鑑』には、山南王とあるのみで、山南王が誰であるかもわからないまま編集がなされている。
(前略)其時ノ山南王、飽マテ驕ヲ窮テ人ノ嘆ヲモ不痛、民ノ費ヲモ不顧、朝暮ニ大酒逰宴ヲ事トシテ、無禮不忠ノ境ヲモ不弁、只徒ニ日ヲソ送リケル。サレハ、逰宴ハ政道ノ爲ニ怨トナル。長本ナレハ、諸侯皆ソムカヌ者ハ無リケリ。爰ニ山南王、大ニ怒テ何條サル事ヤアル。兵ヲ差遣シ、一一ニ攻破トテ、兵ヲ催サレケレハ、諸侯皆今ハ可遁様ナシトテ、佐鋪按司ヘソ帰服致シケル。山南王、彌腹ヲ立サテハ、佐鋪按司ヲモ諸共ニ征伐セントソ企給ケル。依テ諸侯ミナ佐鋪へ會シテ、佐鋪按司ヲ進メ、山南王ヲ攻落シ、佐鋪按司を尊ンテ山南王トソ成奉ル。其徳澤枯骨禽獣ニ及ケレハ、中山山北ノ二山モ半ハ皆山南王ニソ帰シタリケル。依テ始テ兵ヲ発シテ浦添ヨリソ征シ給。
[冲縄県教育庁文化課編『重新校正中山世鑑』巻三 2頁]
[諸見友重『訳注 中山世鑑』2011年 榕樹書林 89頁]
②蔡鐸本『中山世譜』にみる山南王他魯毎の最後
1701(康熙40)年に編集が完了した蔡鐸本『中山世譜』の「尚巴志」の項の附記に、小按司(尚巴志)の金屏風、島尻大裏按司(山南王他魯毎)について、次のように記されている。
(前略)後、小按司、金圍屏を有す。島尻大裏按司、其の圍屏を欲す。ついに金圍屏と嘉多志川を交換す。小按司は此れを得、水を(汲むことを)禁ず。己に帰す者には水を與え、己の帰せざる者には其の水を用いることを許さず。大裏の百姓は、水なくしては田に種を能わず。多くのものが小按司に帰す。
時に山南王は暴虐無道で、心は驕り高ぶり、民の苦愖を思わず。酒を飲んで楽しむ。諸按司は皆山南王に叛く。(山南王は)大いに怒り、兵を発してこの所を攻める。諸按司は皆小按司に帰す。山南王は怒りて曰く、今小按司と諸按司は倡亂を謀り、其の罪は征するに當たり、即兵を発し、伐つ。諸按司は皆小按司の助け山南王を伐つ。小按司は山南を得、普く民に利を施し、中山と山北の民の多くは山南に帰し、兵の勢いは、日に强くなり、遂に武寧を伐って中山を得た。父思紹を立てて王と爲す。
舊譜では(尚巴志が)自ら即位して中山王となったとあるが、誤りである。
『蔡鐸本 中山世譜』1973年 冲縄県教育委員會 171頁]
『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』1998年 榕樹書林 91頁]
蔡鐸本『中山世譜』でも、山南王が誰であるのかわからないままであり、『中山世鑑』と異なるのは、金屏風と嘉手志川との話が付け加えられていることである。
③蔡温本『中山世譜』にみる山南王他魯毎の最後
蔡鐸本『中山世譜』を、その子蔡温が1725(雍正3)年に改修した『中山世譜』の「尚巴志」の項の紀に、山南王他魯毎の最後が、次のように記されている。
宣徳四年、山南王他魯毎、爲中山所滅。先是他魯毎、受封於朝、驕心稍動。其後奢侈日加、常拒忠諌、宴游是好、不務政事。臣民怨之、諸按司不朝。他魯毎発兵、問罪、諸按司畏懼多投中山、他魯毎怒曰、賊奴與、巴志同謀倡亂、不悉誅滅、吾怒不息、遂伝軍令、聚整兵馬、山南騒動事聞於、中山巴志曰、時至矣。遂自率四方按司、親往征之山南、百姓喜躍拝迎、他魯毎益怒、率軍出戦、大敗而走、將入門時、城上放箭、閉門拒御、他魯毎前後受敵、無力可施被擄伏誅由、是琉球復帰一統。
遺老伝雲、中山王巴志有金彩圍屏、粧飾甚美、他魯毎要之不止、巴志曰、吾聞大裏有泉、名呼嘉汀志川泉、以此擙之如何、他魯毎喜擙之原來是泉湧得極大、大裏等処百姓皆引、此泉爲耕、巴志得泉、惟従己者與之不従者不許用之由、是百姓暗従中山者不可勝、數時他魯毎不務政事游戯無度臣民及諸按司皆怨之卒爲、巴志所滅雲
[『蔡温本 中山世譜 正巻』1986年 冲縄県教育委員會 45頁]
蔡温本『中山世譜』において、やっと山南王が他魯毎であることが確認され、金屏風と嘉手志川を交換したのが他魯毎であることになった。
④『球陽』にみる山南王他魯毎の最後
1745(干鍆10)年までに初回の編集が完了した『球陽』にも、尚巴志8年、つまり1429(宣徳4)年に、尚巴志王が義兵を起こして、山南王他魯毎を減すとあり、ほぼ蔡温本『中山世譜』から記事を引用しているものと考える。
84 八年、王義兵を起し、山南王他魯毎を減す。
◎他魯毎、封を朝に受けて驕心稍動く。其の後奢侈日に加はり、常に忠諫を拒み、宴游是れ好みて、政事に務めず。臣民之れを怨み、諸按司朝せず。他魯毎兵を発して罪を問ふ。諸按司畏懼し多く中山に投ず。他魯毎怒りて曰く、賊奴と巴志とは同に謀りて亂を倡ふ。悉く誅滅せざれば吾が怒息まずと。遂に軍令を伝へて兵馬を聚整し、山南騒動す。事、中山に聞す。巴志曰く、時至れるかなと。遂に自ら四方の按司を率ゐ、親しく往きて之れを征す。山南の百姓喜躍して拝迎す。他魯毎ますます怒り、軍を率ゐて出で戦ひ、大敗して走る。將に門に入らんとするの時、城上より箭を放ち門を閉じて拒御す。他魯毎前後に敵を受け、力の施すべき無く、擄にせられて誅に伏す。是れに由りてまた一統に帰す。
遺老伝に説く、往昔の世、球國大旱し、郷裏水無く民以て憂と爲す。一日、人將に舟を泛べて出港し水を他処に求めんとす。忽ち見る、一犬、山中より出で來り渾身盡く濕めるを。人皆之れを疑ふ。今、旱魃已に久しく、田野水無し。知らず、此の犬何故に盡く濕めるやと。遂に其の犬の往く所に隨ひ、深く山中に入る。果然水の湧出すること極めて大なる有り。清潔にして且甘し。則ち犬水中に入り忽ち化して石と爲る。人、大いに喜悦し、高聲にて人を叫びて曰く、此の地に清水有り、來りて水を汲め、别に去きて水を求むべからずと。是に於て水を求むるの人盡く來りて之れを汲む。遂に之れを名づけて嘉手志川と曰ふ。此れよりの後、近村の人盡く此の泉を引き、田に注ぎて耕を爲し、大いに民の利と爲る。
元の延祐年間、國分れて三と爲り、勢鼎足の如し。二山の主自ら稱して王と爲り、政を敷き教を施し群民を撫綏す。而して各使臣を遣はして款を中朝に納る。
山南王伝へて四世他魯毎に至り、驕傲愈々盛にして奢侈日に加はり、臣民之れを怨む。此の時、中山王尚巴志、金彩囲屏有り。粧飾甚だ美なり。他魯毎、屢次之れを要めて曾て止まず。中山王曰く、吾聞く、大裏に泉有り、名づけて嘉手志川と曰ふと。此れを以て之れに換ふるは如何と。他魯毎喜びて以て之れを換ふ。中山王換へて其の泉を得てより、其の水を厳禁し、人に與へて之れを汲ましめず。惟己に従ふ者のみ之れを與ヘ、未だ従はざる者は之れを用ふるを許さず。南山の臣民及び按司皆其の事を譏りて以て相胥に怨み、暗かに中山に従ふ者勝げて數ふべからず。是に於て中山王自ら四方の按司等を率ゐ、親しく往きて之れを征す。他魯毎擄にせられて誅に伏し、遂に山南を滅すと爾雲ふ。
[球陽研究會『球陽 読み下し編』巻二 尚巴志王 119頁]
⑤『阿姓家譜』にみる山南王他魯毎の最後
阿姓の元祖である南風原按司守忠と山南王他魯毎のことが、『阿姓家譜大宗』(前川家)に記載されているので、見てみることにする。原文は漢文であるが、『那覇市史 資料篇第1巻5』から読み下しを引用する。
阿姓家譜
元祖阿衡基 南風原按司 名乗守忠 號南陽
父は山南王汪応祖、母は不詳、室は具志頭間切安裏大親の女、長男阿擢莘南風原按司守忠は、南山王他魯毎の弟なり。
年久しく世遠くして、功業詳にするを得ず。但、舊案に所載し、遺老所伝を以て之を記す。
守忠は、幼にして父母を失い、唯兄山南王の保護の恩を受け、以て長ずるを得たり。
時に山南王政務を怠り、諸按司多く叛く。
明の宣徳四年己酉、尚巴志王大いに義兵を興し、南山を征討す。守忠兄のために力を竭し、勇を勵まし、兵を牽いて防戦す。いかんせん山南勇ありて、智無く、南軍大いに破れ、軍兵の降る者勝りて、數うべからず。山南王、力の施すべきなく擄にせられ、誅に伏す。
(中略)
附 山南王、大裏則ち原め是れ島尻大裏按司なり。元朝延祐年間、中山王、徳を失い、政を廃し、國分れて三となる。時に大裏按司は、自ら山南王と稱す。薨じて(在位年數不詳)、其長子承察度嗣立す。
明朝洪武十六年癸亥、始めて其の臣師惹を遣わし、表を奉じ入貢す。大祖皇帝承察度に幣帛七十二疋を賜う。爾後列に照して進貢し、或人を遣わして入監読書せしむる事皆中山の例の如し。
永楽元年、承察度薨じ、乃ち従弟汪応祖に命じ即位せしむ。
同二年甲申汪応祖封を天朝に受けて山南王と稱す。
同十二年、其兄達勃期心甚だ之を痴み、謀って汪応祖を弑し、位を纂う。之に由り、諸按司兵を合せて達勃期を誅し、汪応祖の長子他魯毎を推して位に即け、並に此事を表奏して封を天朝に受け、山南王と稱す。然して、他魯毎亦驕肆にして、臣民之を怨む。
宣徳四年己酉、中山王尚巴志は、原め是れ佐敷小按司なり。大に義兵を興し、山南を滅す。他魯毎在位二十五年。山南世を伝うる四主百餘年なり、謹んで祖源を考うるため、之を記す。
[『那覇市史 資料篇 第1巻5 家譜資料(一)』阿姓元祖 阿衡基 59頁]
[『那覇市史 資料篇 第1巻7 家譜資料(三)』阿姓家譜(前川家) 2頁]
正史やを家譜を見るかぎりにおいて、山巔毛まで追われ、そこで自刃したという記録を確認することはできない。
二、近代の書籍にみる山南王他魯毎の最後
次ぎに、近代の書籍に山南王他魯毎の最後が、どのように記されているのか見てみることにする。
①宮良當壯「糸満小話」にみる山南王他魯毎の最後
石垣島出身で大正·昭和期の國語學者·方言研究家である宮良當壯は、1925(大正14)年に琉球諸島の言語調査のために、7月31日に糸満町役場を訪れ、役場吏員や古老らから糸満の言語だけではなく、人名や屋號、名勝舊蹟、伝承等を聞き出し、同年「糸満の人名と屋號」を『國學院雑志』第31巻第11號と第12號に連載し、また同年12月1日発行の『三田評論』第340號に「糸満小話」を投稿している。この「糸満小話」に、山南王他魯毎の最後について、正史には記載されていない伝承を、ここで初めて確認することができた。
二、サンティンモー
(前略)中央の最高地は俗にサンティンモーと稱して居る。此丘陵に登つて四顧すれば、糸満町全體を俯瞰し得るのみならず、起伏平凡なる東北方の原野及び西、南の紺碧を湛へたる海、遠くの慶伊、久米の諸島を一瞳の中に容るることが出來る。此丘陵は琉球の昔、三山相対峙して攻争し、中山が南北二山を平定して統一の大業を完成せし折、南山最後の王たりし第四世他魯毎が、中山の討手の爲めに妻子と共に逃れ來り、愈々事迫りたれば王自ら愛妻を手打にして自刃せし処であると伝へられて居る。尤も『球陽』に拠れば、他魯毎王は俘虜となつて誅に伏したと雲ふことであるから其真僞は保し難い。兎に角此時長男南風原按司(後の前川親方)は、壽僅かに二、三歳で、屋嘉安裏大役に擁せられて具志頭村へ走つたと雲ふ。今丘の南面中腹に宏壯なる墳墓がある。ムテー墓と稱し、即ち他魯毎王を葬りし所である。現今此丘陵は航海の安全を祈願する所となつて居り、丘頂の広場には數個の香爐があつて、數多の線香の餘燼が散亂してゐる。祈願者が此丘陵に來るに一の信仰がある。即ち丘下を過ぎれる横道から捷路をとつて直に此丘に登ることを敢てしない。態々迂逥して丘陵正面の縦道を通つて來るのである。此縦道を神の通路と稱し、餘りに神聖なる道故、其沿道の家は繁栄せずと雲はれてゐる。然れども此霊域も漸く漁夫の鱶の血を塗れる網干場とならんとしてゐる。遺憾に堪へない。
[宮良當壯「糸満小話」『三田評論』第340號 27頁]
[宮良當壯「糸満小話」『南島叢考』372頁]
「伝へられて居る」と記述しているので、糸満町の人々にこのような伝え話があったということである。糸満には近代の早い時期から多くの研究者や旅人が訪れ、多くの投稿があるが、この伝承について觸れたのは宮良が初めてである。
また、宮良は爬龍船(ハーレー)の時の歌三首を掲げ、この中の「ナカヌハイブニヤ リキグスクウガディ」を「仲村の走舟は、力城(他呂毎王の墓)を拝んで」と注釈している。地元でサンティンモーと呼ばれる海に突出した丘は、リクグスク(力城)と歌に詠まれ、丘全體が山南王他魯毎の墓であると考えられていたようである。
②糸満尋常高等小學校の『糸満社會史』と『糸満尋常高等小學校創立五十週年記念志』の「糸満社會志」にみる山南王他魯毎の最後
1932(昭和7)年3月に、糸満尋常高等小學校において開催された冲縄県指定學校経営研究會で使用するため、1918(大正7)年2月1日に大日本水産會が発行した『水産界』第425號に糸満町人の名で投稿された「糸満概況」を基に、新たに編集し、謄寫版で印刷した『糸満社會史』がある。
「糸満概況」には、山南王他魯毎の最後についての記述は見あたらないが、『糸満社會史』には、宮良當壯が「糸満小話」で書いた「サンティンモー」の話が、引用されている。
1883(明治16)年1月22日に開校した糸満小學校は、1933(昭和8)年が創立50週年にあたり、その記念事業として『糸満町志』を発刊する計畫であった。しかしながら、実現せず、その代わり1934(昭和9)年11月3日に発行した『糸満尋常高等小學校創立五十週年記念志』に、先の『糸満社會史』を修正して「糸満社會志」として特設している。
他魯毎の最後─山巔毛は、昔南山最後の王他魯毎が最後をとげた所で、その南面せる岡の中腹にあるムテー墓は、他魯毎を埋めてある所であるといふ。南山第四世他魯毎王は、中山王の不意の打手にあひ、妻子を引連れ漸く山巔毛まで逃げのびて來たが、急に打手に迫られた。王は、此処で妻子諸共最後をとげんため抜刀したが、長男南風原按司(後の前川親方)は、僅かに三歳であつたために、やかー大裏大役に連れられて具志頭村へにげ隠れた。他魯毎王は、自ら妻子を手打にして、自分も切腹した。[『糸満尋常高等小學校創立五十週年記念志』「糸満社會志」106頁]
山南王他魯毎の最後が、山巔毛であるという話を記録した最初の書籍は、1925(大正14)年12月1日発行された『三田評論』第340號の「糸満小話」である。
それが、1932(昭和7)年3月の糸満尋常高等小學校の『糸満社會史』に引用され、さらに1934(昭和9)年11月3日発行の『糸満尋常高等小學校創立五十週年記念志』の『糸満社會史』に再掲され、多くの町民、県民が知るところとなった。
三、山巔毛の按司墓の遺物にみる山南王の墓
山南王他魯毎が葬られているといわれる墓を、地元では「按司墓」と呼んで、清明祭などで拝まれている。この按司墓をめぐる奇怪な事件で、戦前の墓の内部の様子がわかる新聞報導がある。また、真境名安興や島袋源一郎らの調査によっても、遺物に関する情報を知ることができる。
①真境名安興の「備忘録第七巻」の「糸満町の古跡墓域」
真境名安興の1928(昭和3)年の6月から9月までの「備忘録第七巻」に、「糸満町の古跡墓域」として、次のように記している。
一、三天毛(サンテンモー)
三天城(サンテングスク)
リキ城 テンシングスク
二、墓 古墳(百八十年前 六代目)
上原姓、町の半數に上ると雲ふ。
三、糸満に南山王の墓あり(キミノ御墓)。
前川殿内と関係ありしと雲ふ。
昔その來歴を尋ねられしとき、强て煙滅せしめたりと(小舟にて骨を格護せりと雲ふ。)
[『真境名安興全集 第三巻』24頁]
真境名安興の「備忘録第七巻」は、斷片的なメモであり、「二、墓 古墳」がどこの墓を指しているのか明確ではないが、おそらく按司墓の左手にある下茂腹·茂太腹両門中墓を指しているのではないだろうか。また、180年前というと1750(干鍆15)年頃ということになり、6代目とは下茂腹門中の元祖宗家である屋號石垣の現當主上原悟さんの祖父上原武太さんから數えて6代前の先祖のことであろう。6代前の生年を溯ってみると、1750年頃になる。その頃に墓を整備したということなのだろうか。
キミノ墓(正しくは「キミガメー」)が、南山王の墓ということなのだろうか。南山王の墓とは别に、王妃の墓あるいは王族関係の墓としてのキミノ墓があるということなのだろうか。
「昔その來歴を尋ねられしとき、强て煙滅せしめたりと(小舟にて骨を格護せりと雲ふ。)」というのは、上原悟さんの父重太郎さんの話に「ある時期、油売りの噂に、南山王の遺骨を中山の役人らが各地で探しているみたいだと、これを聞いて人々は、石棺が見つかってはいけないと思い、刳舟に乗せて冲に避難させたそうだ。ところが、何日か経ってもそのような動きがない。いつまでも冲で避難するのは大変だということで、洗骨を待つ遺體の入った棺箱のある當世墓のシルヒラシに隠したという。いくら中山の役人でも、當世墓の中までは探さないだろうということで、そこにずっと安置した」という。1956(昭和31)年の琉球政府文化財保護委員會の調査でもそう答えている。
②昭和9年の『大阪朝日新聞』で報じられた「南山王の古墳」
1934(昭和9)年5月5日の『大阪朝日新聞』の「付録九州朝日」に、「神憑りの巫女が南山王の古墳を発く/糸満町の奇怪事」と、次のように報じられている。
神憑りの巫女が南山王の/古墳を発く/糸満町の奇怪事
【那覇】糸満町三七一上原武太(四三)方では、數日前、同町三天毛下にある墓地で、清明祭を施行したところ、墓の石碑が食い違い、かつ漆喰が真新しいので、不審を抱き、かくと糸満署に訴えた。同署では奇怪な事件として犯人厳探の結果、同町の玉城かな(四三)·兼城村字座波新門かめ(五二)を検挙。秘密裏に取調べを行つてゐるが、新門は巫女であるがゆえ、神のおつげであると稱し、前記上原氏所有の往昔の南山王(南山即ち島尻)他魯毎の墓を発き、他魯毎の骨と覚しきものを取出したものである。右墓は正しくは按司墓(大名墓)といわれ、上原家の位牌記録、その他で他魯毎王が中山王(首裏)尚巴志から逃亡。自刃して果て、三天毛に造られたもので、石棺は其他他魯毎王の遺骨と推定されてゐる。
『大阪朝日新聞』の「付録九州朝日」で報じられているということは、これより前に地元紙でさらに詳しく報じられていたはずである。地元紙の記者が、上原家の位牌記録やその他から、他魯毎王が中山王尚巴志から逃亡、自刃して果て、山巔毛に按司墓が造られたという話を取材し、報じていたのではないだろうか。
③昭和12年の新聞で報じられた南山王の古墳
1937(昭和12)年1月7日の新聞(紙名不明)の切り抜きに「南山王の古墳から/六百年前の刀剣発見/祟りに脅え元旦に帰る!/山てん毛の按司墓の謎解く」と報じられている。
南山王の古墳から六百年前の刀剣発見 祟りに脅え元旦に帰る! 山てん毛の按司墓の謎解く
南山王統、最後の王、他魯毎の墓が発見された。糸満町山巔毛にある俗稱按司墓は、他魯毎終焉の地として言ひ伝へられてゐたが、この按司墓は糸満町出身の石垣門中の本家たる上原某(五〇位)の所有管理になり、上原氏が物心ついてから、曽つてこの墓が開かれたことなく、神秘と謎を秘めて、只「他魯毎の墓だ」との言伝へのみで、何等確々たる证もなかつたところ、管理者たる上原 家では昨年末、一門立會の上墓内の掃除をなすことになり、糸満小學校長玉城泰一氏らも招いて、五百年來、堅く閉められた按司墓を開いたところ、墓内には多數の遺骨と棺があり、然かも王侯の使用したらしい美事な青磁器類も発見された。
崩れ散つた棺を組合せて見ると北山王統歴代の墓たる運天の百按司(モモヂヤナシー)の墓にある棺と同一型で、大體に於て南山王の墳墓に間違ひないとの見解を得たのである。
処がここに亦南山王他魯毎の墓を立证するに足る有力な貴重品が現れた。それは一昨年の元旦、山巔毛の同墓を何者かが秘かに発掘し、墓内より刀剣を盗み去つた者があつた。然るにこの刀剣を持つた者は刀の祟りや迷信に脅えて、元の場に返すべく、盗難二年後の同日たる本年一月元旦、他魯毎の墓にこの刀を置き去つてあるのを管理者が発見。直ちに糸満校長玉城氏方に持參したので、玉城氏は五日折よく糸満町の史蹟調査に來た目下來県中の鎌倉芳太郎氏と二中校長比嘉景常氏に鑑定方を頼んだところ、この刀剣は六百年前のもので、相當なものらしく、更に専門家の鑑定に待つことになつたが、刀剣といひ、棺といひ、貴重な青磁器類といひ、何づれも墓内から発見された遺品の數々が王侯使用の貴重なものらしいので、山巔毛の古墳が南山王他魯毎の墓たることは間違ひないものと見られてゐる。
その翌8日の『大阪朝日新聞』には、「南山王の古墳を発見/猟奇の話題提供」として報じられている。
南山王の古墳を発見/猟奇の話題提供
冲縄県の島袋県立図書館長らによつて、冲縄県島尻郡糸満町において五百年前の南山王の墓を発見、発掘の結果、見事な青磁器類を堀出し、郷土研究家を喜ばせたが、今度は同墓地から六百年前の刀剣を発見、しかもこの刀剣には奇しき物語がある。
すなはち、一昨年の元旦、何者かが同墓地を暴き、件の刀剣を盗み去つたが、刀の祟りに怯えて、二年後の正月元旦にひそかに刀を墓地に返したもので、南山王の古墳をめぐり、猟奇的な話題を提供している。
④昭和14年の地元の新聞に掲載された「南山王族の墓」
1939(昭和14)年2月日不詳の地元の新聞に、冲縄県教育會主事の島袋源一郎氏が「阿摩龢利の位牌で琉球史の謎を解く」として投稿した記事に、読谷の古堅と楚辺の中間にある「ウエンミ毛」の大岩の下にある「屋良墓」の内部には、今帰仁運天の百按司墓や南山王族の墓と同様の木棺があると紹介している。同年3月9日の『大阪朝日新聞』にも同じ記事が掲載されている。
屋良墓…墓の内部を窺くと、木棺一個、陶棺二個、石棺□個があり、奥の方の木棺は腐朽し、倒壊してゐるが、其の搆造は、今帰仁運天の百按司墓や、南山王族の墓の骨箱と同様である。
山南王他魯毎の墓には、今帰仁村字運天の百按司墓にある木棺(唐櫃形朱漆塗板厨子)と同じようなものがあり、これに山南王他魯毎は葬られていたものと考えられる。
おわりに
按司墓、つまり山南王他魯毎の墓が、この地にあるのは、尚巴志軍に追い詰められ、逃げ場のない山巔毛に至り、ついには観念し、妻子を手に掛け、自刃したためであるとされてきた。しかしながら、このことは正史にその記述を確認することはできない。
近代において、言語學者が地元で聞き取った伝え話を雑志に載せたことにより、これが公になり、さらに小學校の教材や記念志に再録され、周知のこととなったのである。
按司墓には、新聞が伝えるように今帰仁の百按司墓にある木棺と同様の木棺があったと思われる。ところが、冲縄戦の前に日本軍が陣地搆築のため、按司墓に納められた木棺や石厨子を外に出し、内部を破壊したため、當時の様子を確認することができない。
しかしながら、按司墓や周辺の墓地に殘された遺骨や遺物から、他魯毎だけではなく、多くの関係者が葬られていたことが確認でき、他魯毎は自刃したのではなく、王としての尊厳をもって葬られたものと考える。
安裏進氏は、2008(平成20)年11月2日に開催された「シンポジウム南山の歴史─その実相を求めて─」において、「浦添グスク·ようどれ(中山)からみた山南王権」を報告する中で、「山南王陵は未確認である」と述べている。そして、「現在確認されたいる王陵は、浦添ようどれ(英祖王陵)、佐敷ようどれ(第一尚氏思紹王陵)、天山御墓(第一尚氏尚巴志王陵)、首裏玉陵殿(玉陵·第二尚氏王陵)、伊是名玉陵殿(第二尚氏)、山川玉御殿(第二尚氏)、百按司墓(山北王陵または北山監守の墓)である。」という。
筆者は、この按司墓こそが山南王他魯毎の墓であり、山南王陵であると考える。
山南王他魯毎的最後和王的陵墓
金城善
【摘要】《明實録》及《歷代寶案》所記録的山南王有三人--承察度、汪應祖、他魯每。《球陽》中記録的這三王的結局分别如下。第一代王承察度僅留下“永樂元年,承察度薨”這一記録。第二代王汪應祖的記録爲“兄達勃期謀弑”,意爲被兄所殺。第三代王他魯每的記録爲“中山王遂自率領四方按司,親往之。他魯每益怒,率軍出戰,結果大敗而走。將入門之時,城上放箭,閉門拒御。他魯每腹背受敵,無力可施,被掠伏誅”。但是,糸滿市糸滿地區的山巔毛一地流傳着這樣一個故事。“他魯每爲了逃脱中山的追討,與妻子一同逃亡至此,由於事態愈加緊迫,他殺死妻子,然後拔刀自刎”。而山腰上的按司墓則被認爲是他魯每之墓。
在這三位山南王中,陵墓廣爲人知的僅有最後這位他魯每一人,其他二王的尚不明確。册封汪應祖爲山南王時,中國皇帝派遣了使者,想必對承察度進行了諭祭,而汪應祖也在他魯每受封時受到了諭祭,所以他們的陵墓肯定是存在的,只是没有被傳承下來。
本文試對至今爲止的南山研究中没有提及過的山南王他魯每的結局及其死後所葬之墓加以探討。
【關鍵詞】山南王 他魯每 陵墓 按司墓
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