【要旨】冲縄の戦後教育の第一號は、舊美裏村石川の民間人収容地區に開校された石川學園である。アメリカ軍政府が民警や役人とともに教師を任命し、自主的に子どもたちを集めて學校を再開するよう督勵したことがきっかけである。開學日は、いまだ日米軍の砲爆撃が轟く1945年5月10日であった(在冲日本軍の組織的戦闘終了日は同年6月23日である)。學園といえども「校舎なし、教科書、學用品、腰掛、機等學校設備と見られるもの一切もなし」という狀況からの出発で、鬆やガジュマルの木陰に子どもたちを集めて童話を聞かせたり、唱歌をうたわせたりする「青空教室」であった。同年8月には米海軍軍政府内に教科書編纂所が設置され、1年~8年生の國語と算數の教科書をガリ版刷りで作成し、子どもたちへの教育を施している。冲縄本島における戦後直後の師弟への教育は、アメリカ軍政府主道のもとで展開された。
一方、戦後いわゆる「外地」いた子どもたちの教育はどうなっていたのだろうか?日本の植民地台灣には、家族の移住に伴い台灣の學校に転入した子ども、灣生と呼ばれる台灣で生まれた育った子ども、戦時疎開した子どもなど、多くの冲縄籍の子どもたちがいた。將來を擔う子どもたち―とりわけ、冲縄戦で壊滅狀態に陥った冲縄へ引揚げる子どもたち―への教育は、引揚げるまで課題の一つであったといえる。戦後直後の台灣には、日本人子弟のために各県市が開設した教育所の他、冲縄出身者らによる冲縄人師弟専用の學校も開設されていた。すなわち、冲縄僑民総隊の運営した「日僑管理委員會日僑集中管理所 冲縄僑民総隊教育所」と冲縄同郷會連合會の運営した「台北冲縄同郷會経営教育所」である。冲縄出身者の記した同時代資料「冲縄籍民調査書」から、これらの學校に通っていた児童生徒は少なくとも740名おり、児童生徒の出席狀況は低くないものの、最も苦しい家庭では1日1,2回欠食、またある家庭では3回粥食といったように、平均して児童生徒の栄養狀態は良好とは記し難く、中には家庭収入の関係上、就學を中止し働きに出る児童生徒もいることが報告されている。
本発表では、「冲縄籍民調査書」及び學校開設の重要性を中華民國政府へ訴えた川平朝申の手記等、そして実際に冲縄師弟のための學校で教育を受けていた元児童の回想より、戦後台灣における冲縄籍師弟の教育実態を明らかにする。「外地台灣」施されていた教育狀況を解明することは、引揚·留用問題だけでなく、戦後冲縄の教育史の空白部分を埋めることにも連関するものと思われる。
【キーワード】戦後教育 教育所 冲縄人子弟 台灣
はじめに
冲縄の戦後教育の第一號は、舊美裏村石川(現うるま市石川)の民間人収容地區に開校された石川學園(現:城前小學校)である。琉球列島米國軍政府(United States Military Government of the Ryukyu Islands、以下軍政府と略記)が民警や市長とともに教師を任命し、自主的に子どもたちを集めて學校を再開するよう督勵したことがきっかけである。開學日は、いまだ日米軍の砲爆撃が轟く1945年5月10日であった(在冲日本軍の組織的戦闘終了日は同年6月23日である)。學園といえども「校舎なし、教科書、學用品、腰掛、機等學校設備と見られるもの一切もなし」という狀況からの出発で、鬆やガジュマルの木陰に子どもたちを集めて童話を聞かせたり、唱歌をうたわせたりする「青空教室」であった。同年8月には政府内に教科書編纂所が設置され、1年~8年生の國語と算數の教科書をガリ版刷りで作成し、子どもたちへの教育を施している。
一方、戦後いわゆる「外地」にいた子どもたちの教育はどうなっていたのだろうか。台灣には、家族の移住に伴い台灣の學校に転入した子ども、灣生と呼ばれる台灣で生まれた育った子ども、戦時疎開した子どもなど、多くの冲縄籍の子どもたちがいた。將來を擔う子どもたち―冲縄戦で壊滅狀態に陥った冲縄へ引揚げる子どもたち―への教育は、引揚げるまで課題の一つであり、重要な関心事でもあった。このことは、冲縄籍民によって記された同時代資料「冲縄籍民調査書」の「第6節 教育」として記述の3割弱を占めていることからも學校教育への强い関心も見て取れよう。そして、日本人子弟のために各県市が開設した教育所の他、冲縄出身者らによる冲縄人子弟専用の學校も特别に開設されるに至っている。
本稿では終戦期の台灣に設置された「冲縄人の冲縄人による冲縄人のための子弟教育」について同時代資料とともに関係者の手記、元児童の記憶をもとに検討していきたい。
1.戦後直後の在台冲縄籍民―日僑集中管理所内冲縄僑民総隊
台灣は一般狀況が他地域に比較してはるかに良かったことから、その引揚げ順位は最終と予定されていたが、米國から引揚船舶を貸與されたことなどもあり、同胞の引揚げは急速に進捗し、台灣在住一般邦人は、昭和二一年三月から五月の間に約三〇萬人、一〇月から一二月の間に約三萬人が引揚げた。なお、台灣は戦争地域中最も平静に引揚げを完了した地區である。
台灣においては、満州や韓國などの他地域と比べ、比較的穏やかな戦後を迎えたとよく言われる。だが、終戦直後の台灣の情報を舊台灣総督府警務局がまとめた『大詔渙発後ニ於ケル島内治安狀況並警察措置』(全三報)の第二報には、台灣島内は「漸次沈静」「治安狀況も良好」となってきたが、経済面では土地価格の暴騰、流言蜚語による民心の動揺ぶりの様子、「爾後ノ治安維持ハ相當困難ノ度ヲ加フルモノト思料セラル」と記されている。空襲の恐怖や臨戦態勢の抑圧から解放はされたものの、支配と被支配の関係が逆転し、総督府行政が空洞化した中で、台灣在住の日本人の間でも混亂がなかったわけではない。在台日本人と台灣人との人的軋轢、警察力の弱體化、治安狀況の悪化、集団的掠奪·竊盗·襲撃·脅迫·暴行等の被害、物流の停滯による品不足、諸物価の高騰、貨幣価値の低下、流言蜚語による民心の動揺、職業不安、居住問題、子弟の教育、私有財産の処置など、様々な問題が一気に湧き起っていた。
このような中、終戦直後の台灣には約3萬人の冲縄籍の人々が居た。1945年12月迄には主に宮古·八重山出身の戦時疎開者1萬人餘は自力または自治體派遣船等で台灣を離れ、また1946年4月末迄にはGHQ/SCAPの指定する船舶で「本土」へ引揚げる者もおり、1946年6月には10,132名(1,564戸)に減少していた(表1參照)。
表1『冲縄籍民調査書』にみる在台冲縄籍民の人口及び戸數
(冲縄籍民調査書”,B6/F7,George H. Kerr Papers, Hoover Institute Archive, No1~No2及び『琉球官兵顛末記』309、314頁を元に筆者作成)
10,132名は冲縄の米軍政府から帰還許可が出るまで台灣で過ごすことになるが(概ね1946年12月末までには大多數が冲縄へ引き揚げた)、先述した通り戦後の混沌とした台灣で冲縄の人々は一定數集団で生活するようになる。表1からも分かる通り、地區别にみると「集中管理所」は留用者が存在しない。この「集中管理所」とは留用依頼から外れた者や諸処の事情で引揚げを急ぐ者など、各地區から職をたたみ引揚げに備えた者たちの集団である。留用者には給與が支払われていたので、彼らの生活が急激に逼迫することはなかった。一方、集中管理所に集まった人々は、敗戦前は官衛、學校、銀行、會社、工場などに勤務していたが敗戦により失職し「今では日稼(土方、荷物運搬等)委托販売、或いは行商、人力車夫、牛車夫等に依り不安定なる僅少なる収入を得つつあり」といった狀況に置かれることになった。更にその生計狀態は「栄養低下し、特に學校児童或いは小児等に栄養不良者多數有るは遺憾とする處なり」といった有様で、特に體力の無い子どもたちにとっては厳しい狀況であった。一定の収入を得られた留用者でさえも「生活少々安定せるやに認めらるるも、多數の家族を擁せる者は棒給にては一家を支ふるに足らず、衣類其の他家財を売却し生活費を補ふ者大部分」という狀態であった。
もう少し具體的に集結者の搆成を見てみよう。人口比は男性1,012名、女性1,412名となっており、10才未満以外全ての年代で女性の數が男性を上回っている。このことは、戦争により男性が徴兵·徴用等のため不在で婦女子ばかりの苦しい生活を送っている狀況を表している(表2參照)。もう一點、就學適齢期に相當する6歳~15歳が含まれている年代層だけで1,397名おり、全體の過半數を占める。冲縄本島の収容地區で自然発生的に學校設置の要望が出たように、台灣にいた冲縄籍子弟への教育についても同様に學校設置を求める聲があがっていた。
表 2 集中管理所の人口搆成及び人口搆成ピラミッド
(表2:”冲縄籍民調査書”,B6/F7,George H. Kerr Papers, Hoover Institute Archive、23~24頁及び「四、日僑集中管理所冲縄僑民総隊(集中営)」『琉球官兵顛末記』315頁を元に筆者作成)
2.「冲縄籍民調査書」に見る在台冲縄籍民子弟への教育
當時、冲縄籍民をまとめていた冲縄同郷會連合會のメンバーの一人、川平朝申の手記には、中華民國政府側へ「冲縄へ帰還するまで、児童生徒の教育を中斷することは少年たちの向學心を喪失させる心配があるのでぜひとも特别の処置」を依頼したことが記されている。そして、下記資料1のとおり特别に冲縄籍子弟のための教育所が設置された。なお具體的な開校時期並びに閉校時期は「冲縄籍民調査書」にも川平朝申の手記にも記載がなく、どれくらいの期間存続していたのかは定かではないが、集中管理所が設置されたのが1946年5月で、「冲縄籍民調査書」が同年6月には記載されていることから、集中管理所開設後それほど時間を経ずして開校したものと推測できる。
資料1 「冲縄籍民調査書」「六 教育」概要文
六 教育
在台冲縄僑民の子弟教育概ね左の如し
一、日僑管理委員會日僑集中管理所に集中せる僑民子弟は冲縄僑民総隊の経営になる教育所に収容し教育実施中なり。同教育所は初等部·中等部·基隆分教場に分たれ、その教育狀況别紙の如し。
二、一般僑民(留用者を含む)の子弟教育は、各縣市共日僑子弟教育所に於ては尚特别に台北冲縄同郷會経営の學校を設立し台北市内に在る冲縄僑民の子弟を教育しあり、その詳細别紙の通り。
尚各縣市中最も活況を呈せるは基隆市にして適齢児童二〇〇人中就學児童一八五人、即ち就學率九〇%の好成績を示し、日僑教育所博愛國民學校児童の過半數を占むる狀態なり。同市に於いては中等部も男女計三五人の就學者あり。父兄は主として社寮町、浜町等にありて漁業を営み経済上割に餘裕ある爲か、児童の栄養狀態も頗る良好なり。
台北市にありては、適齢児童四〇〇人中約一六〇人は台北冲縄同郷會経営の教育所に収容せるも殘餘は埔仁國民學校(日僑子弟教育所)に通學、中等部は男女各約五〇人、和平中學(日僑子弟教育所)に入學し、他縣市に較べ割に良好なり。
冲縄籍の人々待望の教育所が設置されたが、その出席率はどうであったか。「冲縄籍民調査書」作成の際に全都市の日僑集中管理所内の在台冲縄籍民の子弟の出欠狀況も調べていた。各県市中最も就學率の高かったのは基隆市で適齢児童200人中就學児童は185人と90%の児童が出席している(中等部においても男女計35名が就學している)。この基隆市の高出席率については、「父兄は主として社寮町、浜町等にありて漁業を営み経済上割に餘裕が有る爲か、児童の栄養狀況も頗る良好なり」と事由が記されている。「冲縄籍民調査書」は基隆市と台北市の日僑管理委員會下の教育所を中心に記されており、他の県市の具體的な教育狀況はよくわからない。
2-1.冲縄僑民総隊教育所
まずは、集中管理所にいた冲縄籍民の相互扶助団體である冲縄僑民総隊が運営した「冲縄僑民総隊教育所」を見てみよう。正式名稱は、「日僑管理委員會日僑集中管理所 冲縄僑民総隊教育所」であり、日僑管理委員會の下で獨自に運営している。同教育所は、初等部·中等部·基隆分教場に分かれており、幅広く子弟に教育を施そうとしていた姿勢がうかがえる。なお、他府県の日僑子弟が出身地别に同様の教育所を開設していたか否かは管見の限り資料が見當たらず、他の日僑管理集中所との比較ができない。本稿では、冲縄籍民は自身の子弟専用の學校として特别に教育所を設けたと言うにとどめたい。
冲縄僑民総隊の本部職員は台灣で教員をしていた者が多く占めている。副総隊長の山田親法は高雄州で學校長、総務部副部長の嵩原久男は台中州で教員、自活部部長の安仁屋政守も同じく台中州で教員、経理部の與那原良輔は高雄州で校長の経験がある。教育部部長を擔った赤嶺康成についても言及するまでもなく教員経験を有していた。総隊本部職員の部長以上計12名のうち、判明している教員経験者は5人で、約半數を占めている。この割合の高さから見ても、冲縄僑民総隊が冲縄の復興を擔うことになる子供たちの教育に力を入れていたことがわかるだろう。
以下、「日僑管理委員會日僑集中管理所 冲縄僑民総隊教育所(初等部·中等部)」と「教育所基隆分教場」から冲縄籍民の子弟がどのような教育を受けていたのか見てみよう。
日僑管理委員會日僑集中管理所 冲縄僑民総隊教育所(初等部·中等部)
冲縄僑民総隊教育所の教育方針は、「集中営、琉僑の子弟に対し、初等並に中等普通教育を施し、以て人格の陶冶並に知能技能の啓培を図らんとす」と定めている。初等部は台北市の龍安街龍安國民學校に設置され、中等部は台北市東門國民學校に設置された。就學対象児童は、冲縄僑民総隊第1·2·3·4·5の子弟で、男児が152名、女児が152名、計304名。中等部の生徒は男子40名、女子21名の計61名であった。冲縄僑民総隊教育所では、以下の時間割が作成されている(表3·4參照)。
表3 冲縄僑民総隊教育所(初等部)の時間割
(『琉球官兵顛末記』327頁より筆者作表)
表4 冲縄僑民総隊教育所(中等部)の時間割
(『琉球官兵顛末記』328頁より筆者作表)
実際に冲縄僑民総隊教育所(初等部)に通った石嶺眞吉は、當時を次のように證言する。
學校もありましたよ。たぶん、台北帝大の近くだったはず。冲縄の子どもたちだけ集められて、勉强したよ。まぁ、勉强というよりも、歌を歌ったな。アメリカの“Sunrise”というような歌で、渡久地政一という、後で琉大の音楽の先生をしていた人から習ったよ。子どもたちを元気にさせよう、という意図があったかもしれないね。何で英語の歌だったかはわからないけれどね。
音楽の授業で歌を歌ったことは覚えていると證言した石嶺だが、その他の教科については記憶がないという。また數少ない台灣引揚げ時の荷物にも教科書等學用品を入れた覚えはないという。管見の限り、同教育所で使用された教科書といった類は見つかっていない。戦後直後の日本では戦前の教科書に墨塗りをするなどをして間に合わせの教科書を使用していたが、植民地台灣でも同様のことが起こったかどうかは判然としないが、同教育所ではおそらく教科書そのものを用意するのが困難であったことがうかがえる。
「教育費(月謝)」は、初等部と中等部合算で1ヶ月7,300円、その内訳として人件費が6,000円、備品費はなし、消耗品費が1,000円となっている。この費用の捻出については、詳細な記載がなく、どのように資金繰りをしていたのか把握できない。しかし「家庭の狀況」という項目に「學用品、衣服類については、父兄の教育に対する熱意旺盛なるも経済上意に任せず、不充分にして、廃物利用を爲す等、節約に務めつゝあり」と記されており、備品費がゼロ支給であっても父母の熱意と努力に支えられ、どうにか子弟に対し教育を施していたという狀況がうかがえる。後述するが、冲縄同郷會連合會の運営した教育所の運営費用は連合會の経費と父母による寄付金であったのに対し、冲縄僑民総隊教育所はその父母からの寄付金もままならなかった。冲縄僑民総隊の困窮さが、子弟への教育にも表れていた。
「出席率」は初等部で99.17%と高い出席率をマークしているものの、「児童の栄養狀態」は良好が約5%、普通が約25%、不良が約70%と恵まれた環境ではなかった。中等部では、出席率が85.0%で欠席事由は事故(自活、使役)、病気で、ある程度働く事のできる者は生活費を得るため働きに出ていた。事実、就學年齢だった石嶺も、琉球官兵を相手に石鹸やたばこを売り歩き、生活費を稼いでいた。以下、石嶺の證言をみてみよう。
冲縄の人は水道町じゃなくて、総督府の中にも住んでいたんですよ。そこに游びに行った時に、むしろのような物をひいてごろ寢した覚えがあるさ。冲縄の兵隊たちもその総督府の中にいたよ。これね、僕石鹸とかタバコとか売り歩く仕事していて、その相手が冲縄の兵隊さんたちで、人數多かったの覚えている。いくらで売っていたとかはもう覚えていないけれどね。この石鹸が上等かそうでないかは、針を刺したらすぐ分かりよった。針をぶすっと刺してジメジメしているような感じだったら、上等でないわけ。それで買ってくれるものはもっぱら兵隊さんたちだった。
石嶺は當時小學5~6年生(10~11歳)であった。糊口をしのぐため、學校の無い時には売り歩きをして日銭を稼ぐ生活を送っていたという。事実、日銭を稼がなければ栄養は足りない狀況であった。この年代の男児は1日1330キロカロリーが必要とされる。生徒には、一人一日主食米450キロカロリー、副食費5円が集中管理所より支給されていたが、栄養狀態は慢性的に悪く、成長期の青少年には充分とは言い難い食糧事情であった。
日僑管理委員會 日僑集中管理所 冲縄僑民総隊教育所 基隆分教場(うるま學園)
冲縄僑民総隊は基隆にも支部があり、それに伴い基隆港新岸壁16號倉庫内に「基隆分教場(うるま學園)」を設立している。この基隆分教場は基隆集中営内學齢児童を対象としていたが、その実態は9割が疎開者の子弟であった。就學児童數は148名で、教員は3名(渡久地政一、赤嶺豊子、棚原憲善)で、冲縄僑民総隊教育所と比べると児童數も教員數も少ない。それもあってか、學年毎への教育ではなく、上中下と分離教室に分かれており、また中學年と上學年は交互に隔日授業を行っている。このことは、基隆分教場の大きな特徴である(表5參照)。
表5 基隆分教場(うるま學園)の時間割
(前掲、『琉球官兵顛末記』330頁より筆者作表)
出席率は87.82%で、児童の栄養狀況は「可と認めらるゝも、特に不良と認めらるゝ児童8名あり」というものであった。「教育費」は月額1,220円で、その内訳は人件費1,100円、備品費なし、消耗品費120円だった。
「基隆港の岸壁倉庫の収容所内で小學校に代わる塾のようなものが開設され、その恩恵に預かった一人」という赤嶺保則の證言を紹介しよう。彼は石嶺の證言にも挙がった渡久地政一と畫家の島田寛平から教育を受けたようで、「敗戦による精神的及び生活不安の中にありながらも子弟の教育に配慮されたこの事は、教育者としてよほど强い信念をお持ちの方々だったと思います」と述懐している。彼は台灣生まれのいわゆる「灣生」であり、引揚げるまで冲縄の地は一度も踏んだことがなかったが、音楽の授業で渡久地政一から冲縄民謡「だんじゅかりゆし」を習ったことから度々口ずさんでおり、現在でもこのメロディーが流れると當時のことを思い出すと述懐している。
一方で、渡久地政一の回顧録には、上記の證言のような子どもの「一種の郷愁感」とは異なる心境が綴られている。ある日、中國の兵隊から「學校の児童に中國の國家(三民主義の歌)を教えるから協力せよ」との高圧的な命令が音楽教師である彼に下ったという。當時、三民主義の歌の教育は、冲縄籍の元日本兵(通稱:琉球官兵)にも施されていた。音楽を以て三民主義教育の刷り込みを行おうとしていた意図がみてとれよう。渡久地は、敗戦や降伏などの活字を見るだけでも異常なショックを受けるような心理狀態下で、敵國の國家を教えるという屈辱的な命令が下ることに、涙をのんで従ったという。どのように中華民國側と共作したのか。
歌詞の発音は中國の兵隊が、旋律は私が分擔して2、3日がかりでどうやら歌えるように指道することは出來たが、ほんとうに敗戦のみじめさを身にしみて感じたものである。おかげで、未だに冒頭の一節を覚えていて、當時を偲ぶよすがとして口ずさんでいる。
赤嶺も渡久地も「郷愁感」や「當時を偲ぶよすが」から終戦期の台灣で教え教えられた歌を、引揚げ後も口ずさんでいた。しかし、同じ口ずさむでもその意味合いは大きく異なっている。教育の場面においても「敗戦國民」として自覚させられる一面があったようだ。
2-2.「台北冲縄同郷會経営教育所」
つづいて、冲縄同郷會連合會が運営していた「台北冲縄同郷會経営教育所」について見ていこう。台北冲縄同郷會経営教育所は、東門國民學校(西側舊校舎、東門町)に開設され、琉僑の児童生徒277名に対し授業を行なっていた。川平朝申の手記によると、台北市は校舎を無償で提供しその管理の責任は持つが、教員や教材、教育器具などその他運営の一切は冲縄同郷會連合會が責任をもつことになったようだ。
対象児童は、台北在住の冲縄籍民の留用者の子弟を主體としているが、一部(軍人眷屬の子弟·台中集中営僑民の子弟)僑民総隊の児童も受け入れて教育を施していた。台北冲縄同郷會教育所の教育方針は、冲縄僑民総隊が1項目にまとめているのに対し、以下のようにa~dの4項目を設け、より具體的に示している(資料2參照)。
資料 2 台北冲縄同郷會経営教育所
A教育方針
現下の過渡期に於て冲縄児童を如何に指道すべきかとの教育的根本理念に関しては、教育者間にも意見を異にするものあるべきは予想に難からず。然りと雖も斯かる教育の根本問題は早急に確立せらるゝものとも考へられず。依って一般的教育理念に基づき次の教育方針に依り指道したり。
B児童を快活に育て上ぐること
世界情勢の急変特に日本敗戦の結果、児童の感情にも著しき影響を及ぼせるは事実なり。此の際、僻見根性を除去して児童の前途に希望を持たせ快活に育て上ぐる事は、極めて緊要なり。但し自暴癈頽的気分に陥らしめぬ様特に注意すること。
C児童の體位向上を計ること
健全なる心身の鍛錬に意を用ひ、將來戦後復興途上に横はる難関突破に堪える素地を築くこと(國民學校時代に運動の趣味を植付けざれば中等學校に於ては手遅れの感あり)。
D科學知識の基礎を作ること
多くの事実を知らせることよりも寧ろ少しの事実に就きて心理探求の基礎たる観察力及思考力の養成を計り同時に科學趣味を培養することに務むる事。
E平和愛好心を養成すること
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(”冲縄籍民調査書”,B6/F7,George H. Kerr Papers, Hoover Institute Archive、70~72頁)
通常、日本人子弟(琉僑を含む)は引揚げまで各地の「日僑指定教育所」に通い教育を受けていたことから、わざわざ獨自に教育所を設置したことは冲縄同郷會連合會の活動の大きな特徴の一つといえる。
教育所には10名の職員を配置し、本訓7名、初訓2名、教諭1名と殘り1人を除いては全員が學校関係者で、就學児童數は総勢277名(1年生63名、2年生46名、3年生39名、4年生41名、5年生46名、6年生42名)だった。児童の内訳は、台北に居留している子弟が160名、冲縄僑民総隊として共同生活を送っている児童が117名であった。
「教科目並に教授時數(周単位)」を見てみよう(表6參照)。読方、英語·華語、郷土史、算術、理科、體操、音楽、図畫習字·工作の8科目10種類あり、學年に応じて教科の時間が異なっている。読方と算術が1周間あたりどの學年も3時間(5·6年生は4時間)は取られており、基礎學力を身に着けさせたいとする教育所の方針が垣間見られる。用意されている科目はほとんど現在の小學校と同様の時間割となっているが、注目すべき科目は英語·華語·郷土史の3科目である。これらの3科目は低學年(1·2年生)のコマには入っていないものの、當時の情勢を鑑みて戦後の台灣で特别に設けられた科目であっただろう。子どもたちにも英語·華語を教育し、環境に適応させようとしている姿勢は興味深い。
表6 台北冲縄同郷會経営教育所の時間割
(”冲縄籍民調査書”,B6/F7,George H. Kerr Papers, Hoover Institute Archive、75~76頁より)
「教育費(月謝)」については、「a.内訳」と「b.備考」が記されているのみで、内訳は人件費·備品費·消耗品費·其他からなっている。備考として「右諸費用の出所は台北同郷會並父母有志の寄付金なり」との記述が確認できる。つまり、教育所の運営に関する費用の捻出は、連合會の経費と父母による寄付金であった。
「その他(8月度の出席狀況と児童の栄養狀態並に家庭狀況)」では、8月の出席狀況は男子生徒が86.17%、女子生徒が82.93%、平均84.74%と高い出席率をマークしている。他方で、やはり家庭環境は厳しいものがあり、調査書には最も苦しい家庭では3回粥食の上に1杯と限られている家庭や、1日に1、2回欠食という家庭もあり、一般的に児童の栄養狀態は悪く、中には家庭収入の関係上、就學を中止し働きに出る児童もいることが報告されている。
3.おわりに
以上、終戦期台灣に存在した「冲縄人の冲縄人による冲縄人のための學校(教育所)」についてみてきた。この學校に通ったと思われる児童生徒の人數は700人程度で、開設期間は半年にも満たなかった。このような臨時の學校が設置されたのは、冲縄本島への引揚げ時期が未定でその間子どもたちに教育を施したいという冲縄籍民の願いもあったことも理由にはあろう。だが、台灣にいた子ども達は、まさに「健全なる心身の鍛錬に意を用ひ、將來戦後復興途上に横はる難関突破に堪える素地を築くこと」からも推察される通り、荒廃した冲縄の復興の擔い手として期待されていたという側面が强かったと思われる。この事は、全ての教育所に英語教育を道入していること、特に冲縄同郷會連合會運営の學校に至っては「郷土史」の授業まで行っていることからも、引揚げ後米國軍政府下の環境にスムーズに移行させようとの気概も看取できはしないか。
數ヶ月荒れ狂った“鉄の暴風“は戦時中の現役教師650名餘りの命を奪い、次代の冲縄教育を擔うはずだった師範學校の男女生徒の多くが命を落とし、教育再建に不可欠な人材が決定的に不足していた。その穴埋めをしたのが戦前期から渡台していた教員であった。その數は大正10年代から終戦間際の間に総計400名を超えている。中でも宮古出身の教員數は4分の1を占めており、「台灣閥」という名稱ができるほど台灣で教育経験のある教員が一大勢力となっていた。台灣における終戦期の冲縄籍子弟への教育を解明することは、戦後冲縄の教育史の空白部分を埋めることにも連関するものと思われる。
今回は台灣側の記録を扱うことができなかったため、今後台灣側の資料も含めて検討していきたい。
他の引揚地においても教育の機會があったか否かについては淺學のためわからない。だが、戦後の台灣において教員の配置や學用品の手はず、オリジナルの時間割作成等、冲縄籍の人々が一手に擔った學校運営というのも珍しいのではないだろうか。「幻の學校」は終戦期の台灣に確かに存在した。
論戰後台灣的冲繩子弟的教育
中村春菜
【摘要】冲繩戰後教育邁出的第一步是石川在舊美裏村民間收容所開辦的石川學園。其契機是美國軍政府在任命民警和官員的同時也任命了教師,大力鼓勵學校自主招生重新辦學。1945年5月10日開學當日,日軍和美軍砲火聲仍然在冲繩大地轟鳴(日本駐冲繩軍有組織的戰争活動結束於同年6月23日)。雖説是學園,但由於“没有校舍、課本、學習用品、凳子、課桌等可以視爲教學設施的任何物品”,所以其實是“露天教室”,也就是在鬆樹和榕樹的樹蔭下召集起孩子們,給他們講童話,教他們唱歌等。同年8月,美國海軍軍政府成立了教科書編纂所,制定了1至8年級學生的蠟版國語和算數課本,對兒童進行教育。戰争剛剛結束後,冲繩本島的對冲繩子弟的教育是在美國軍政府的主導下開展的。
另一方面,冲繩以外的其他地方的冲繩兒童在戰後所受教育的情况如何呢?日本殖民地台灣有很多冲繩籍的兒童,如跟家人移民轉入台灣學校的兒童、被稱爲“灣生”即生在台灣長在台灣的兒童、戰時疏散的兒童等。對承擔冲繩未來的兒童的教育——尤其是想回到由於冲繩戰役而陷入一片狼借的冲繩的兒童們——對他們的教育可以説是在他們返回冲繩前的一個課題。戰後台灣除了在各縣開辦了爲日本子弟服務的教育機構外,也開辦了面向冲繩人子弟的專門學校。即冲繩僑民總隊運營的“日僑管理委員會日僑集中管理所 冲繩僑民總隊教育所”及冲繩同鄉會聯合會運營的“台北冲繩同鄉會經營教育所”。同時代冲繩人記載的資料“那霸籍民調查書”中提到去這些學校上學的兒童至少有740名,盡管兒童們的到課率不低,但是正如記載的那樣,最困難的家庭一天只吃2頓或1頓飯,有的家庭3頓飯都喝粥,平均水平來看很難説兒童的營養良好,其中也有兒童因家庭收入問題而輟學。
本文通過分析“冲繩籍民調查書”、向中華民國政府呼吁開設學校的重要性的平朝申的手記及在當時爲冲繩子弟開設的學校中實際受過教育的冲繩人的回憶等,來探明戰後台灣的冲繩籍子弟所受教育的實際情况。闡明“外地”台灣教育情况不僅是撤歸、留用的問題,而且也填補了戰後冲繩教育史的空白。
【關鍵詞】戰後教育 教育所 冲繩子弟 台灣
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