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冊封使の見た琉球

  【要旨】嘉慶4年8月19日、趙文楷と李鼎元は清朝の皇帝より、冊封使正、副使として、尚溫冊封の琉球行の命を受けた。これは、清朝における4回目の琉球冊封であった。その一行は嘉慶5年(1800年)5月12日に琉球に着き迎詔の禮を受け、6月8日に故王の尚穆を諭祭し、7月25日に冊封の禮を行った。すべての任務を終えた後10月25日に琉球を離れ、11月1日に福建に到着、冊封の旅程を終えている。李鼎元の詩集『師竹斎集』では、この冊封の経験の全貌を知り感じることができる。

  李鼎元の冊封使録『使琉球記』は、清朝初期の中琉関係史や琉球史研究において、相當に重要な資料である。李鼎元の詩人としての文學的成就は、この數年いくつかの論文において整理と紹介が行われているが、これまでの先行研究においては、まだその外交式典をテーマとした作品に全般的な分析と検討は行われていない。しかし、それぞれの式典は使臣の詩作にとって重要な素材であり、使録や「儀注」の内容を裏付けているだけではなく、琉球への屬國意識を具現化したものとなっている。

  よって、本稿では、李鼎元の迎詔、諭祭と冊封儀禮をテーマとした作品について詳細な分析を行うとともに、冊封使録を參考に、他の冊封使のテーマを同じくする詩文とも比較を行い、李鼎元の琉球観を明らかにすることを試みた。

  李鼎元の詩作の分析の試みを通して、李鼎元の目から見ると琉球は貧弱で小さな國であったが、琉球王府が儀禮重んじ儀式を正しく行っていることに満足し、中國の威光と恩沢を広く知らしめることを重視していることがわかった。また、李鼎元の琉球観の背後には、琉球國が丹精をこめて準備して見せた「中國化」の姿勢の動向も無視できない要素であると言えるものと思われる。 

  【キーワード】冊封使  琉球漢詩  李鼎元  迎詔  諭祭  冊封禮

  一、はじめに

  李鼎元(1749~1815)の字は味堂·和叔、號は墨荘、四川省綿州羅江県出身であるその従兄弟李調元、弟李驥元とともに「綿州三李」または「羅江三李」と呼ばれた。干隆43年(1778)戊戌科進士に合格した。翰林院庶吉士、翰林院検討を経て、内閣中書とり、嘉慶5年(1800)に琉球國王世孫尚温を冊封するため副使として正使趙文楷と來琉した。これは、清朝における5回目の琉球冊封であった。帰國後、兵部主事となった。著作に『使琉球記』6巻、『師竹斎集』14巻等がある。

  李鼎元を研究対象とした論考については、これまでにその使録『使琉球記』についての成果が多く発表されているが、その琉球に焦點をあてた詩作について論じたものはまだ少ない。その詩作に関して考察した論文の嚆矢は、上裏賢一による「冊封使の詠んだ琉球-趙文楷と李鼎元を中心に-」(1999年)である。次に、平良妙子は琉球大學に提出した修士論文(2003年)で、歴代の冊封使の詩作に焦點をあて作品の分析を行っている。後に、その研究の成果を學術雑志に発表をしている。また、歴代冊封使が描寫した中山八景の修辭のアプローチの変化についての論文も學術雑志に発表している。

  2008年以降、台灣では廖肇亨が冊封使の「海洋書寫」について、趙文楷と李鼎元の詩作をテーマとした論考を次々と発表している。2018年の日本と台灣の研究者の共著として刊行された『琉球冲繩的光和影―海域亞洲的視野』では、第7章の「中國冊封使的琉球意象」で、廖肇亨はさらに海洋経験、自然の風物、琉球歌舞の3つについて歴代冊封使の詩作を紹介し、李鼎元の2首の作品について觸れている。2015年の「歸來壓扁翠雲鬟:琉球竹枝詞中的女性角色與社會生活」では李鼎元の竹枝詞にも觸れている。

  李鼎元個人についての研究は、2009年度に琉球大學に提出された許欽欽の修士論文で、初めて総體的な研究が行われた。許はその作品と生涯の経歴を対照して詳細に整理を行い、李鼎元の琉球滯在期間の15首の詩を海産物、天使館の植物、人物交流、游覧、鑑賞といった題材に分類し考察している。

  一方で、2012年以降、中國では趙文楷と李鼎元の詩を尖閣諸島(釣魚島)の主権の帰屬の論拠とする論文が數點発表され、二人の詩作が、領有主権に関わる政治的色彩を帯びて引用されている。

  2013年には、李小娟、邱爽の共著による「李鼎元的琉球書寫」が、中國では初めての李鼎元の詩文を主要な考察の対象とする論文として発表され、李鼎元の詩6首について分析がなされている。

  2016年には、四川師範大學に董雅倩の修士論文「李鼎元及其詩歌創作研究」が提出され、その中で董は李鼎元の生涯、著作の復數の版本、朝鮮との交流、その詩歌の特色等について言及している。そして中國の伝統詩學の視點から李鼎元の詩歌を分析し、清代詩壇における位置づけを試みている。また、特に李鼎元の作品集以外にも、その他に散逸していた12首の詩と文章9編を収録している。

  2017年に夏敏による『明清中國與琉球文學關係考』が上梓され、夏は「第九章·從清代詩文看中華文化向琉球的「東漸」」においては、李鼎元の詩を用いて、仏教の琉球における伝播を考察している。

  2018年に発表された張杭の「清嘉慶五年出使琉球詩歌背景探析」においては、嘉慶帝の外交政策を切口として趙文楷と李鼎元の詩作の分析を行っている。

  以上の先行研究には立派な成果が挙げられているが、李鼎元の公式行事についての作品についてはほとんど論じられていない。しかし、張杭の論文で述べているように、それぞれの式典は冊封使の詩作にとって重要な素材であり、且つこれらの儀禮に関する詩歌は「儀注」の内容を裏付けており、政治的な意義を具現化している。これらの作品には中國の皇帝、冊封使(皇帝の勅使)、琉球國王の三者の宗主國と屬國といった関係が如実に表れていると、言っていい。よって、筆者は、李鼎元の『師竹斎集』のなかで迎詔、諭祭、冊封儀禮をテーマとした作品に表れる冊封使の琉球観に分析を加え、冊封使の琉球に対する屬國意識を明らかにしたいと考える。

  二、迎詔三接の禮に関する作品

  『清會典』は外藩の冊封について、迎詔·諭祭·冊封の三つの部分に分けているが、琉球側は冊封儀禮の作法について自ら「迎詔儀注」「諭祭儀注」「冊封儀注」等詳細な注釈を加えている。李鼎元の『使琉球記』においても詳しい迎詔儀注の内容が記されており、賴正維はこれら「儀注」は『明會典』の「藩國迎詔注」の内容を踏襲しており、更に具體的なものとなっていると述べている。また、儀注はすでに遺失しており、李鼎元使録中の儀注の内容は重要な資料となっていると評価している。

  李鼎元の「航海詞」第十九首及び「五月十有二日由覇港奉 冊入天使館」には、いずれも迎詔三接の禮に関する描寫がある。「航海詞二十首」は一篇のパノラマ的漢詩であるため、一首のみを取り出して分析をするには不適當であると思われる。また張杭も第十九首と迎詔三接の禮との関連について述べているため、「航海詞」第十九首については、本稿では検討の対象とはしない。ここでは、先に「五月十有二日由覇港奉 冊入天使館」を見ることにする。

   

  五月十有二日由覇港奉 冊入天使館     李鼎元

  五月十有二日、覇港により、冊を奉じ、天使館に入る

  表格略

  この詩は4つの段落に分けることができる。第1、2句「萬人爭看使星來、一朵黃雲抱日開」は第1段落で、使者が那覇港に到着したときの情景を描寫している。李鼎元の『使琉球記』5月12日の記載によれば、封舟は辰の刻(午前7~9時)に那覇港に入港し、一行は午の刻(11時~13時)に上陸した。その時那覇の人たちは、物見に行列をなし道端に集まっていた、これは、第1句の情景そのままである。「萬人爭看」は実景について述べているだけではなく、李鼎元はこれにより琉球の人々が清國からの冊封を熱烈に歓迎し、期待を寄せていることを伝えている。第2句は『洛書』「黄雲扶日」の典故を「黄雲抱日」と転じているが、晝の那覇港の空に本當にこのような異象が現れたのではない。実際に『使琉球記』でもこのような特殊な空の事象についての記載はなく、天子の分身「詔勅」の到達で発生した吉兆を示すものであると解することができる。第1、2句の「星」「雲」「日」の意象は、中國の皇帝の詔勅の到着時に天地萬物がこぞって祝う雰囲気に満ち満ちている様子を作り出している。また、この句の「來」と「開」の二文字は、この2句にダイナミックな感じを與えている。

  第2段落の第3、4句「山到流虯平似岸、水歸霸港小於杯」は、李鼎元の琉球の風景に対する第一印象を描寫している。誇張した形容でここの山は岸のように平らかで、港は杯よりも小さいとしている。琉球は李鼎元にとって小國である。特筆すべきことは、「流虯」は『中山伝信録·巻四』の記載によると、『中山世鑑』に、琉球の地形が虯竜が水中に浮かぶようであるので隋使がこう名付けたとある、とのことである。

  風景を記した第2段落に続く第3段落第5、6句「王孫守禮衣冠古、草木承恩雨露催」は琉球の人文を描寫している。『使琉球記』の記載と「迎詔儀注」に依れば、王孫はそのとき衆官を率いて迎恩亭まで迎詔していること分かる。5句目によると、李鼎元の王孫に対する評価は、禮制を守っていることと服飾が古式であることであった。東アジアにおいて、中國を中心として成立している華夷秩序の中では、冊封體制に編入された中國の周辺國家はみな、中華の皇帝の「徳」と「禮」による支配の下、中國の天命を尊重し、皇帝の徳を慕って臣従しなければならない。従って、王孫が禮制を遵守するか否か、皇帝の徳が琉球にどのような影響をもたらすかは、李鼎元が使節として屬國にて確認することの重點となっている。第5句の「王孫守禮衣冠古」は、中華の皇帝「禮」による支配を强調し、第6句「草木承恩雨露催」は琉球での皇帝の「徳」を體現するものであり、草木は琉球國民を象徴している。天からの雨露は皇帝の恩徳で、恩を受け生き生きとしている感じを表している。

  ここで特に注目に値するのは、李鼎元が王孫は「衣冠古」と記していることである。中山王は、基本的には明朝の皮弁冠服の様式を保持しつつ清國の冊封を受け入れたので、李鼎元が「古」の文字を用いたことは、王孫の服は昨今の清國の服飾ではないが中華の伝統に反するものでもないと感じ入ったことを示している。尚温に対し「王孫」という言葉を使ったことは、冊封が完了しておらず尚温の王権はまだ承認を得ていないという政治的な意味がある。

  最後の一段落「賓至如帰今始信、果然聲教震無雷」は、李鼎元の迎詔の禮全體に対する評価であるといえる。「賓至如帰」(賓客へのもてなしが、己の家に帰ってきたかのように丁重である)の言葉を以て琉球國の歓待を稱贊したのは、陳侃の『使琉球録』が嚆矢である。冊封使は琉球に赴く前に使録を熟読する。「今始信」という言葉遣いから見ると、もしかして李鼎元は出國前、このような稱贊には半信半疑であったが、今は自らが體験して本當に信じるようになったと示唆している。末句では「聲教震無雷」と結んでおり、琉球國は深く中華文化の薰陶を受けており、皇帝の天威と教化の賜物が届かぬところはないと表現している。これは冊封使としての身分で皇帝の功績や徳をほめたたえようとするものである。無雷とは、漢代の西域の國家で、その國王は盧城(今の新疆塔什庫爾干県内)を治め、7000人ぐらいの小國であった。「果然聲教震無雷」は干隆46年(1781)に烏魯木斉に左遷された曹麟開の西域詩「庫車」の詩句「雜處氐羌鄰布露、遠宣聲教近無雷」と呼応していると考える。曹の「庫車」は清朝が天山の南北を統一した事績を褒めたたえるために作られた新疆紀事詩16首の一つである。ここで「無雷」を用いて、皇帝の教化は極西の無雷も揺り動かしているように極東の琉球までも届くと象徴しているのであろう。最後の2句から、琉球國が使節の労をねぎらう迎詔之禮が成功裏に終わったことも知ることができる。

  董雅倩の修士論文「李鼎元及其詩歌創作研究」では、李鼎元の「慷慨激昂」(意気軒昂である)という詩歌の風格について例を挙げて説明するために、この詩について觸れ、「詩歌意境開闊,氣勢磅礡,歌詠琉球人傑地靈,乃文明開化的禮樂之邦」(詩境が広大で、気迫に満ちている。琉球の傑出した人物と秀でた自然を褒め、文明開化の禮楽の邦だと稱える)との評価をしている。しかし、筆者の管見では、「山到流虯平似岸、水歸霸港小於杯」から見ると、この詩は琉球の「地靈」(秀でた自然)を詠んではいない。また、詩中に王孫の守禮を詠んでいるが、琉球の「人傑」(人才が傑出している)も記していない。さらに「山到流虯平似岸、水歸霸港小於杯」と「無雷」からは、李鼎元の心の中では琉球は辺鄙な小國であると思っている実感が見てとれる。

  三、諭祭に関する作品

  「諭祭」のもともとの意味は「天子が臣下を祀るよう命を下す」ことであるが、ここでは中國皇帝の名において使者を遣わし行われる琉球の前王に対する追悼の式典を指す。これが無事に終わらないかぎり、琉球の新しい王に対する即位を許す冊封の儀式を行うことはできなかった。

  冊封使の來琉の目的は二つある。一つは、先王の霊を祀る諭祭であり、もう一つは新王の冊封である。永楽2年(1404年)武寧の冊封からこの諭祭·冊封というパターンは定式化され、清朝に至っても踏襲されていた。

  明朝初期には、别々に派遣されていた諭祭使と冊封使が來琉していたが、正統8年(1443年)の尚忠の冊封から諭祭と冊封とが冊封正副使によって挙行されるということが定着した。

  諭祭は、新しい國王の即位の前に挙行される。これは、中國の皇帝が琉球王朝存続の正當性を承認することを意味する。諭祭の意義について、陳捷先は陳侃『使琉球録』を引用して以下のように述べている。

  「冊封の先に先王の祭祀を行なうは〈尊〉の表れであり、そこには天下の〈孝〉を勧める意があり」、また「其の生者を封じ、其の薨者を祭ることは〈厚〉の表れであり、そこには天下の〈忠〉を勧める意があるからである」。諭祭と冊封の儀禮においては、(中略)その全てが禮を重視する儒家思想をもって実踐されたといってもいい。

  先王の諭祭は崇元寺(那覇に所在)にて行われた。崇元寺は舜天以來の歴代國王を祀る國廟であり、尚円王6年(1474年)に建立されている。7李鼎元の諭祭に関する作品の分析は以下の通りである。

   六月八日 諭祭琉球故國王尚穆禮成恭紀  李鼎元    

   六月八日、琉球の故國王尚穆を諭祭する禮成りて恭みて紀す

   表格略

  この詩は、首聯の起句「祭典遙頒耀海疆」から栄光が輝き勢いが强いのを感じる。遙遠な琉球にて挙行された諭祭、その栄光は沿海の海域をくまなく照らす。次句「卜年四十筭靈長」は、尚穆王の在位期間を記している。諭祭文には「閲四十三年之久」と書かれ、実際には四十三年間の在位であったが、ここは漢詩の二文字のリズムに合わせると共に、四十數年も四十年に概括したと考えられる。また、「靈長」という表現から、李鼎元は尚穆王が天命を全うし福運に恵まれていたと感じ入っていたことが窺える。

  頷聯の対句「祖孫似續回 天眷、旌旐飛揚近日光」について、原詩では「眷」字ははっきり見えない。下記の図①の通りである:

  図①

  「回天譽」の使用例を確認できないが、『御定全唐詩』卷288の陸贄「禁中春鬆」には「儻得回天眷、全勝老碧峰」(もし天子の恵みが巡ってくることを得れば、巫山の碧峰で老いることより完全に勝る)という用例がある。ゆえに、ここでは「天眷」で、「天譽」ではないと考える。回とは、めぐる。天眷とは、天子の恵み。

  上句「祖孫似續回 天眷」は琉球の王統が維持できるのは皇帝の恵みのおかげだと稱える。下句「旌旐飛揚近日光」は、祭典の時に太陽の下で旗が翻っている様子を描いているだけのように見えるが、古くから「近日」には皇帝に接近するという意味合いがある。ここの「近日光」も「回 天眷」と対になっているので、「旌旐飛揚近日光」は諭祭が皇帝の御心にかなっているという印象を與える。

  頸聯の対句「入廟威儀徵志略、傾城士女爇心香」は、諭祭の當日の情景を描いている。廟に入る儀式は『琉球國志略』に記されたものと同じで、相互に证することができ、街中の男女皆々は祭祀に敬虔に心を捧げている。李鼎元は來琉の前にすでに周煌の『琉球國志略』を熟読しており、諭祭の際には儀禮を使録の記載と比較している。

  「傾城士女爇心香」という一句は、琉球の全國人民が如何に諭祭を重視し、いかに敬虔に接しているかを强調している。李鼎元は諭祭を通して琉球にも皇帝の徳化が及び、まさに皇帝の目指す「大同の世界」が実現していることを體感しているかのようである。李鼎元は『使琉球記』の中で當日の様子にについて、「通國臣民歡躍狀、仰見我 皇上孝德旁孚、無遠弗屆…是日球人觀者彌山匝地、男子跪於道左、女子聚立遠觀…」(全國の官吏や民が喜びに沸いている。我が國の皇帝の孝徳が広められて隅々にまで至り、人々を景仰感服させる…その日、祭典を見る琉球人が至るところに溢れていた。男は道の左側に跪いて、女は群れて立っていて遠いところから見ていた…)と記している。 

  尾聯「禮成瑞應尤堪紀、焚帛煙中寶氣黃」について、李鼎元の注釈「是の日、焚黄の煙中、黄気の結ばるること有り、瓔絡となる」の通りに、諭祭文が書寫された「黄紙」を燃やした時の「瑞應」(吉兆)に注目している。この場面について『使琉球記』では、「焚黃時有黃氣直上二十餘丈、結爲黃蓋、四垂瓔珞、莫不嘆爲奇祥」(黄紙に書かれた諭祭文を焚焼したときに、黄色の気が高さ約二十丈あまり上に突き昇り、御車の黄色の蓋の形に凝結した。その蓋の四隅には気によってできた珠玉の飾りもが垂れている。皆、それは不思議な吉兆だと感嘆した。)と記している。

  古代には、皇帝が徳を高め時局が太平であれば、天は吉兆をもって応じると思われていた。それは「瑞應」と呼ばれている。「禮成瑞應尤堪紀、焚帛煙中寶氣黃」のいう吉兆は皇帝の徳によるものである。この詩句にある「寶氣黃」から見ると、黄色は皇帝を代表する色であり、また李鼎元の注釈にある「瓔絡」も皇帝の御車の蓋にある飾りであることからも、それが理解できる。中山先王を諭祭する場でありながら、先王の過去の功績による吉兆ではなく、中國皇帝の徳による吉兆であると書くこと、そこに冊封の真意が表れていることがみてとれよう。

  四、冊封儀禮に関する作品

  冊封使の最大の任務である冊封の儀禮は、首裏城正殿の前庭で行われる。これまで中國に対して「世孫」と稱していた王位継承者の尚温は、冊封儀禮で中國によって正式に王位を承認され、以後「國王」を名乗ることができるようになる。

  李鼎元の『使琉球記』の記載によれば、尚温王の冊封儀式は、嘉慶5年(1800年)7月25日に首裏城正殿の前庭で行われている。冊封の式次第はすべて「冊封儀注」に従って行われている。

  式典の前日には冊封使の宿泊する天使館や、そこから首裏城までの道路の要所に飾りつけが行われ、王宮正殿の前庭には闕庭·宣読台·世孫拝位·衆官拝位などが準備される。冊封の儀式が行われる日は夜明けに役人衆が行列を率いて天使館に參集し、冊封使を先道して首裏城に案内する。そこで世孫の上香、宣読台での冊封詔勅の読み上げ、冊封使から國王へ緞幣、御書の伝授などが厳粛に行われる。通常なら奏楽位を設けるのだが、この時は干隆帝の喪中のため禮楽の演奏はしていない。

  七月二十有五日 冊封儀禮成贈中山王二十韻 李鼎元

  表格略
  
  本詩は二十韻の排律である。冊封の縁故、冊封儀禮の準備からはじまり、冊封儀禮當日の行進、御庭の情景、御書樓での扁額の拝見を描寫し、最後に琉球國への期待で結びとしている。具體的に詩意から見ると4句で一段落となり、10段に分けることができる。

  1段落目は対句①②からなる。『禮記·孔子閒居』「三無私」の典故を借り、なぜ詔勅を下して冊封したかというのは、「天無負載私」(天が萬物を覆い地が萬物を載せるように、その恩沢は遠近にかかわらず私心がない)であるからとし、天のような私心がない皇帝の恩沢をほめたたえている。一方で、「地有蠻荒服」では、李鼎元の心の中での位置づけでは、琉球國は辺鄙で未開の地と同様に思っていることが垣間見える。

  2段落目は対句③④からなり、冊封儀禮の準備を説明している。対句③「盛暑浮航後、初凉卜吉時」とは、琉球に着いたときは盛暑(舊暦5月12日)だったが、吉時を占って天候が涼しくなり始めた時期(舊暦7月25日)に冊封儀禮を行った。正使趙文楷の「冊封儀禮成紀事示中山王」にある「落日飛鳥影、秋風拂雁毛」と対照すると、冊封儀禮當日は少しひんやりとした初秋だったことがわかる。

  対句④の上句「禮章征舊典」は、すべての儀禮は古くからある『儀注』に基づいていると言及している。『使琉球記』の記述「觀其儀、率遵舊典、亦守禮之明驗也」(その儀を見れば概ね以前の儀注を遵守している。それも「守禮」の证しである)と照らし合わせると、この「禮章征舊典」は琉球の「守禮」を褒めているということが読み取れる。また、下の句「樂部按新規(李鼎元の注釈:時樂皆設而不作)」の具體的な狀況については、『使琉球記』の巻4「7月19日」の條に依ると、當時諸官の拝位の後ろに奏楽位を設置したが演奏はしなかったということが分かる。上述したように干隆皇帝の服喪中であったためである。

  3段落目は対句⑤⑥「遮道兒童拜、排衙士庶嬉。春秋王子富、黼黻賜衣宜。」からなり、李鼎元が冊封儀禮で目にした人々を描いている。童児、庶民、官吏や皇帝から賜った衣に相応しい若い盛りの尚温も含まれている。李鼎元は儀禮の観衆の中で特に童児に着目し、皇帝の徳化は子どもにまでも及んでいると强調する。

  ちなみに、尚温は先王尚穆の孫(世孫)であり、息子(王子)ではない。『使琉球記』では、尚温が冊封される前もずっと「世孫」と稱されており、「王子」と稱されたことはない。この「春秋王子富」では、平仄に合わせるために広義の「王子」=王の子孫を使っている。

  4段落目の対句⑦⑧「高結龍亭彩、斜飛鳳字旗。入門山轉峻、繞郭水尤奇。」は、冊封隊列の行進を詠んでいる。特筆するべきは、「入門山轉峻」の門は首裏城の守禮門ではないことである。『使琉球記』巻4「7月25日」の條には、「更進又一坊牓曰守禮之邦……更進爲歡會門踞山巔……」(更に進むとまた一つの牌坊があり、その額には守禮の邦と書かれ…更に進むと歓會門になり山頂に盤踞する…)という記述の通り、現在の守禮門は當時牌坊と思われていた。歓會門こそが首裏城の最初の門であった。『使琉球記』の歓會門が山頂に盤踞するという描寫もまたこの詩句と一致している。

  5段落目⑨⑩「幣帛充庭棟、弓旌拂殿楣。百官瞻紫極、九列叩丹墀。」は、御庭で見た情景を詠んでいる。「九列」とは大臣のことであるが、大臣だけ叩頭の禮を行うわけではないので、ここは前句の「百官」と同義とみなすことができる。「紫極」も「丹墀」と意味が近く、両方とも宮殿を指す。本來「丹墀」とは、宮殿前の丹砂で赤色にぬりこめられていた石のきざはしと、それに続く土間のことである。ここは首裏城正殿の中で帯狀に敷かれ儀式の際に諸官と道具類の配置の目安となる赤磚の実景と一致している。この段落からは、正殿前の広場にある皇帝の詔敕等を納めるための高殿「闕庭」には下賜品が溢れていること、正殿前の左右に弓や旗を持った儀衛が直立していること、また衆官一斉の拝禮という壯大な儀式の場面が浮かびあがる。

  6段落目の対句⑪⑫「靄靄祥煙裊、曈曈瑞日遲。詔開麟閣動、書到蜃樓移。」で詠まれているのは、冊封儀禮の最も重要な場面である。「祥煙」は世孫の焼香から立ち昇る。夜明けに天使館から出発し、今になってやっと天が段々と明るくなってきた。それは天地萬物が一同に喜んでいる感じを與えている。次に詔敕を開いて読み上げる。その栄譽は功臣を表彰する殿閣までも震わせる。御書も頒賜され、その後「蜃(竜に似た伝説上の動物)」の絵柄が描かれている御書樓に移される。李の使録には「御書樓」と書かれているが、それは首裏城正殿2階の「大庫理」と呼ばれている大広間のことである。そこには金龍の彩色や雕刻が施されているが、中國の皇帝しか使えない龍を忌避するため、格が低い「蜃」であるとの描寫をしているのであろう。

  『使琉球記』巻4「7月19日」條の儀注によると、冊封儀禮當日は天使館から出発し、正殿前の御庭に入り、順次焼香、詔書·敕書の宣読、緞疋の授與、御書の授與等が行われた。また、その記載から詔書·敕書の宣読が終わり、世孫が衆官を率いて三跪九叩の禮をし、詔書·敕書が御案に置かれてはじめて世孫の身分が國王に切り替えられたことが分かる。その後、法司などの官吏は、詔書·敕書·緞疋·御書を持って内殿に入る。ゆえに、ここの詩句では明記されていないが、冊封儀禮の最も重要な部分はここで一段落となる。

  7段落目対句⑬⑭「奔走麾群吏、匡扶杖法司。居然稱冠冕、卓爾見威儀。」では、詔書·敕書·緞疋·御書の拝領後の情景を詠んでいる。李鼎元はここで特に「冠冕に相応しい」と「威儀が見える」と、國王になった尚温の風采を贊えている。

  8段落目の対句⑮⑯「抱質真如玉、傾心恰似葵。人歡東壁鑒、星拱北辰知。」では、前段を引き継ぎ、尚温王の品格と忠心を褒め、冊封儀禮が終わってから御書樓(東壁)の扁額を拝見し喜び感服している情景を詠んでいる。ちなみに、前使周煌の「冊封儀禮恭紀四首」その三には「即看震兌宮開處、知是葵心總向西。」(即ち震兌を看て宮が開く処、知る是れ葵心総て西を向く。)という詩句があり、李鼎元はこの句に呼応して、同じくひまわりの花が太陽を向くように君主を尊敬し傾倒するという表現で尚温の忠心を褒めている。當時、李鼎元が御書樓で拝見したのは、

  『使琉球記』によると、康煕帝の「中山世土」、雍正帝の「輯瑞球陽」、干隆帝の「永祚瀛壖」という三つの扁額である。

  9段落目は対句⑰⑱に作られ、対句⑰の「雨溢泉爲醴、雲蒸草是芝」では、雨と雲は皇帝の恩沢の象徴で、それによって琉球の泉も美酒のように旨く、草も吉兆の香草になる。冊封儀禮によって琉球國も格が上がったとのことを示している。また、「方言供筆塹、異語助談資」から李鼎元の琉球の官吏たちとの談話の様子が見られる。李鼎元は方言(琉球の言葉)にも壁を感じることはなく、逆に筆談を通してその異なる言語に深い興味を覚えている。

  最後の段落は、対句⑲⑳で李鼎元の琉球國への期待で結んでいる。李鼎元は典故を用いて、同じ「海隅の地」にいるが、自分は黄帝の風後のような立派な臣下ではないと謙遜している 。一方で、李鼎元の主観においては、琉球という屬國は漢代の代表的な屬國である月氏と類似しているということが示されている。

  漢詩における「月氏」の意味と位置づけは、王維の「送平淡然判官」からも伺える。その尾聯「須令外國使、知飲月支頭」(須らく外國の使をして、月支(月氏と同じ)の頭に飲むを知らしむべし)の典故は、『史記·大宛列伝』の記載によるものである。月氏は漢代の西域の國であり、匈奴王はかつて月氏を敗し、月氏王のしゃれこうべを飲器にして酒を飲み、ために恐れをなした月氏族は遠くへ逃げ去ったという。この典故は中國の威徳を外國に知らせることに用いられた。また、『後漢書·班超列伝』には、月氏が漢代に朝貢していたが、漢代の姫との和親を求めたが得られなかったため反亂を起こし、班超に平定され、月氏は再び中國に朝貢をしたと記されている。李鼎元の心中では、琉球國は位置づけとしては弱小國ではあるが、中國と関係が深かった月氏に類すると見ていた。李鼎元と琉球國王は互いに失職することのないよう、使者としての自分が國威を宣揚する任務を全うし、琉球國も忠心な藩屬であり続けることを望んでいる。ただ、月氏の中國との復雑な関係と「隕越」というネガティブな言葉から、琉球國に対するかすかな警告の意も汲み取れると思われる。

  五、まとめ

  李鼎元の公式行事に関する詩から、以下のような琉球観が見えてくる。

  (一)琉球王府が儀禮を正しく履行していることを高く評価している。

  それは「王孫守禮衣冠古」「入廟威儀徵志略」「禮章征舊典」という詩句から読み取ることができる。「守禮」の背後には琉球が丹精をこめて準備した「中國化」してみせた演出が存在している。18世紀以降、王府は急速に琉球王國の中國化をはかっていくのである赤嶺守は『琉球王國』で、「(琉球王府は…)自発的に中國化をすすめることによって、アジア最大の専制國家である中國王朝の忠誠なる屬國であることを誇示し、中國の絶大な権力をもって薩摩·幕府権力を牽制しようとした」ことを指摘している。よって、李鼎元はその目に映る琉球の姿に満足し、屬國支配ができているとみなし、それを皇帝の恩沢のおかげであるとしている。

  (二)李鼎元の目線から見ると、琉球は弱小で辺境の屬國である。

  それは「山到流虯平似岸、水歸霸港小於杯」「果然聲教震無雷」「地有蠻荒服」「藩封類月氏」に示されている。

  (三)李鼎元は特に尚温に好感を持っている。

  李鼎元は公式行事についての3首の詩の中において幾度も尚温を賞贊し、「王孫守禮衣冠古」「春秋王子富、黼黻賜衣宜」「居然稱冠冕、卓爾見威儀」「抱質真如玉、傾心恰似葵」と詠んでいる。趙文楷が公式な行程を詠んだ5首の詩において、「七月廿四日行 冊封儀禮口號」と題する詩の中で尚温を単に「始信藩王氣象尊」として稱贊しているのみで、李鼎元のような感嘆する様子は窺えない。

  (四)李鼎元は一連の詩作を通して、琉球國の人民に慕われている中華の姿を表象している。

  「萬人爭看使星來」「傾城士女爇心香」「遮道兒童拜、排衙士庶嬉」という詩句から、李鼎元は観禮の群衆の視線を常に意識していることが窺える。冊封使は、華夷秩序の中において禮を知らない「夷」に禮を守るように教え道く責があると考えていた。李鼎元もその中の一人である。李鼎元は子ども、庶民、女、士大夫の振る舞いを通して、皇帝の教化の広がりを宣揚したのであろう。冊封使の汪楫、徐葆光、全魁、周煌、趙文楷、齊鯤の詠んだ迎詔、諭祭、冊封儀禮に関する詩には、群衆は全く登場しておらず、李鼎元の人民の視線に対する関心はその作品を特徴づける一つになっていると言えよう。

  冊封使眼中的琉球

  ―李鼎元的迎詔、諭祭及冊封禮相關作品探析―

  李舒陵

  【摘要】嘉慶4年8月19日,趙文楷與李鼎元獲命爲册封正、副使,前往琉球爲尚温進行册封,這是清朝第5次册封琉球。其一行人於嘉慶5年(1800年)5月12日扺琉接受迎詔禮,6月8日諭祭先王尚穆,7月25日舉行册封禮。完成任務後,於10月25日離開琉球,11月1日返扺福建,結束册封旅程。從李鼎元的詩集《師竹齋集》中,可感受此次册封經驗的全貌。

  李鼎元的册封使録《使琉球記》,對於清代初期的中琉關係史或琉球史研究而言,是極其寶貴的資料;而其作爲詩人的文學成就,近年來亦有多篇論文進行整理及介紹。但目前先行研究中,對於其外交儀禮爲題材之詩作尚未有完整的探析。然而,各項儀禮是使臣詩歌創作的重要素材,不僅可與使録、儀注的内容互相印证,並體現出視琉球爲屬國的意識。因此,本論文詳細解析李鼎元以迎詔、諭祭及册封禮爲題的相關作品,同時參考使録,並與其他使臣相同題材的詩歌進行比較,試圖闡明其琉球觀。

  在詳解李鼎元的詩作“五月十有二日由霸港奉 册入天使館”“六月八日 諭祭琉球故國王尚穆禮成恭紀”“七月二十有五日 册封儀禮成贈中山王二十韵”後,可發現琉球在其眼中實乃弱小之國,但他對王府的遵守禮制極爲滿意,並着重宣揚中國的天威德化。李鼎元的琉球觀背後,扎根於18世紀以後琉球國殫精竭慮的“中國化”動向,亦是不可忽視的因素。

  同時,在李鼎元個人特色上,表現出對尚温王的特殊好感。其典禮相關三首詩作中有7句詩句贊美尚温,相比之下,正使趙文楷5首詩中僅1句贊美尚温。另一方面,李鼎元亦着力於表現琉球國民衆對中華的仰慕之情。在其他册封使的詩作中,民衆完全没有登場,李鼎元却描寫了迎詔、諭祭及册封禮時的兒童、庶民、女子、士大夫,隨時意識到民衆視綫之所在,堪稱其作品特色之一。

  【關鍵詞】册封使  琉球漢詩  李鼎元  迎詔  諭祭  册封禮 
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